帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(29)山中におぼつかなくも喚子鳥かな

2016-09-26 19:28:28 | 古典

               


                            帯とけの「古今和歌集」

                    ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


  
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解き明かす。


 「古今和歌集」巻第一 春歌上
29

 

(題しらず)              (よみ人しらず)

をちこちのたづきもしらぬ山中に おぼつかなくも喚子鳥かな

(遠近の見当もつかない山中で、たよりないようすの、よぶ子鳥かな・わが子を呼ぶ母鳥かな……おの有様、この在り処の、手さぐりもならぬ、山ばの中ほどで、おぼろげなさまねえと、子の貴身を喚起する女かな)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「をちこち…遠近…遠い処近い処…おの在るこの在り処」「を…お…おとこ」「こ…子…し…肢…おとこ」「ち…方向や場所を示す接尾語」「山…山ば…感情の盛り上がり」「中…なかば…途中」「おぼつかなくも…あてにならないよ・こころもとないわ・おぼろげでしっかりしないことよ」「も…意味を強める…感嘆・詠嘆を表す」「喚…喚起する…呼ぶ…呼びかける」「子…こども…し…おとこ」「鳥…鳥の言の心は、神話・万葉集を通じて、女」。

 

見知らぬ山中で、しんぱいそうに幼鳥を呼ぶ母鳥の声かな。――歌の清げな姿。

遠近のない感情の山ばの途中で、おぼろげとなったものよと、ものを喚起する女のありさまよ。――心におかしきところ。

 

「よぶこどり」も、古今伝授の三鳥の一つという。室町時代には秘伝となっていたらしい。鳥の言の心が女と心得れば、秘密の意味が顕れる。すでに、おわかりのとおり、おぼろげになったおとこを喚起して泣く女というような意味を孕んでいたのである。ただし、伝授は口伝であって、此れを実証できる物は何も残っていないだろう。

 

万葉集での「よぶこ鳥」の詠まれ方を見てみよう

巻第八 春雑歌 鏡王女歌一首

神奈備のいは瀬のもりの喚子鳥 いたくな鳴きそ吾恋まさる

(神奈備の伊波瀬の社の喚子鳥、痛く鳴かなないでよ、吾恋益さる……彼身靡びの、井は浅瀬の盛りの、貴身喚起する女、ひどくいたいたしく泣かないでよ、わたしの恋が益すじゃないの)

 

さて、国文学は、古今伝授の鳥を、カンコ鳥か、カッコウ鳥か、やま鳩かなどと、鳥の実名を探す方向に向かうが、秘伝になったのは、「よぶこ鳥」が万葉集や古今和歌集の文脈で孕んで居た戯れの意味なのである。向かう方向が間違っている。秘伝に成ったのは実名ではない。

 

平安時代の歌は、貫之、公任、清少納言、俊成、この人々の歌論と言語観に学べばいいのである。それを簡単に要約して示す。(重要なので、以下を再掲載する)

○紀貫之は、「歌の様」を知り「言の心」を心得る人になれば、歌が恋しくなるという。(古今集仮名序)

○藤原公任は歌の様(表現様式)を捉えている、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしき所あるを、すぐれたりといふべし」と。優れた歌には複数の意味が有る(新撰髄脳)。

○清少納言はいう、「聞き耳異なるもの、それが・われわれの言葉である」と(枕草子)。発せられた言葉の孕む多様な意味を、あれこれの意味の中から、これと決めるのは受け手の耳である。今の人々は、国文学的解釈によって、表向きの清げな意味しか聞こえなくなっている。

○藤原俊成は「歌の言葉は・浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕われる」という(古来風躰抄)。顕れるのは、公任のいう「心におかしきところ」で、エロス(性愛・生の本能)である。俊成は「煩悩」と捉えた。


 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)