帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(10)鶯だにも鳴かずもあるかな

2016-09-04 18:30:00 | 古典

               


                             帯とけの「古今和歌集」

                    ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。


 「古今和歌集」巻第一 春歌上
10



         
春のはじめによめる           藤原言直

春やとき花やおそきと聞きわかむ 鶯だにもなかずもあるかな

        春のはじめに詠んだ・歌         ふじはらのことなお
 
(立春が早すぎするのか、花の咲くのが遅いのかと、聞きわけよう・それにしても春告げて、鶯さえも鳴いていないことよ……情の春はまだ早すぎるのか、お花咲くのが遅いと待っているのか、聞きわけようにも、をみなは泣いてもいないなあ)


 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「春…立春の日…季節の春…情の春」「花…梅の花…木の花…男花…おとこ花」「うぐひす…鶯…春告げ鳥…鳥の言の心は、神話の時代から、女」「なかず…鳴かず…泣かず…感極まらず」「かな…感嘆・詠嘆を表す」。

 

立春の日を迎えたが季節の春はまだのよう、春告げて鶯さえも鳴いていない、早春の風情。――歌の清げな姿。

大人になった日の初めての夜の、男の途惑いを・おとこの戸惑いを、表出した。その心情は、心にしみて愛しい、いじらしい、かなしい、せつない。――歌の、心におかしきところ。

 

藤原言直の歌は、古今集に、この一首のみ。いわゆる歌人ではないが、この歌の真髄に触れれば、早春の歌であり、男の青春の歌として、ここ、春歌上に置くべき価値の有ることがわかる。少年が大人の男になった夜の心情は、一千年以上離れた今の大人の男たちの心にも、おそらく、伝わるだろう。

 

今や、歌の下半身の「心におかしきところ」は消えてしまった。春は季節の春、花は植物の花、鶯は季節の春を告げる鳥としか聞こえない人になってしまったためである。

紀貫之が古今集仮名序に「歌の様を知り、言の心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、いにしへを仰ぎて、今を恋ざらめかも」と記した時、歌の様(表現様式)を知らず、言の心を無視して、言の戯れることさえ知らぬ文脈に堕ちるとは夢にも思っていなかっただろう。現に三百年後の「新古今和歌集」では同じ文脈にあって、歌の様と言の心は継承されていたのである。新古今集の三百年後には、和歌の真髄は埋もれてしまった。無常というべきか。


 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)