帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(14)鶯の谷より出づる声なくは

2016-09-09 19:31:22 | 古典

               


                             帯とけの「古今和歌集」

                    ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解き明かす。

 

「古今和歌集」巻第一 春歌上14

 

(寛平御時后宮歌合の歌)           大江千里

うぐひすの谷よりいづる声なくは 春くることを誰かしらまし

(鶯の谷より出る春告げる声が無ければ、春くることを、誰が知るだろうか……をみなのたに間より、いでる声が無ければ、春の情の来ることを、誰が知るだろうか……浮く秘すのたに間より、いでる小枝が無ければ、張るものが暮れることを、誰がしるだろうか)

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「うぐひす…鶯…鳥…鳥の言の心は女…浮く秘す、憂く泌すなどと戯れる」「谷…谷川・谷間…言の心は女…おんな」「声…鶯の声…女の声…谷間の声…小枝…身の枝…おとこの自嘲的表現」「春…春情…張る」「くる…来る…暮る…時が過ぎる…ものが果てる」。

 

目に見えない季節の春は、何時の間にかやって来る。鶯が谷から里に出て鳴く声が聞こえた時、誰もが春を知る。――歌の清げな姿。

性愛の極致と、その暮れの果て方の体験を表出した。――この歌の「心におかしきところ」は、ひときわ奥深いようである。これが、俊成の言う歌に顕れた「煩悩」である。こうしてそれを歌に詠んだ時、「煩悩」であることの悟りの境地に一歩入っているのだろう。

 

大江千里は、「古今和歌集」が奏上される十年ほど前、寛平六年(894)に「句題和歌集」(千里の私歌集)を宇多天皇に奏上した。当代の一流歌人である。それに、儒者で博学の人。曽祖父は阿保親王で、祖父は大江本主、この方は在原業平とご兄弟である。


 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)