帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(11)春きぬと人は言へども鶯の鳴かぬかぎりは

2016-09-05 18:31:23 | 古典

               


                            帯とけの「古今和歌集」

                   ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。


 「古今和歌集」巻第一 春歌上
11

 

春の初めの歌                 壬生忠岑

はるきぬと人はいへどもうぐひすの なかぬかぎりはあらじとぞ思ふ

    春のはじめの歌                みぶのただみね
 (春が来たと人々は言っても、鶯が、春告げて・鳴かない限りは、春では・ありはしないと思う……春が来た心地よと女は言っても、をみなが、感極まって・泣かない限り、春情の極みで・ありはしないと思う)


 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「春…季節の春…春の情」「人…人々…女」「うぐひす…鶯…言の心は女…名は戯れる。浮く秘す、憂く井す…おんな」「す…巣…洲…言の心はおんな」「なかぬ…鳴かぬ…泣かぬ…感極まらぬ」「あらじ…ありはしないだろう…ないだろう」「じ…打消しの推量を表す…打消しの意志を表す」。

 

立春の日が来た・春だと人々が言っても、春を告げて鶯が鳴かないうちは、春ではないと、我は・思うと、独善的季節感を述べた。――これは歌の清げな姿で、エロスに着せられた衣を見ているのである。

心におかしきところは、浮く秘すの汝身唾に、をみなの春の情をしる、泣かない限り、その極みではありはしないと思う――和合の成り難さを体感した青年の青春の青い性愛。

 

今見る限りのすべての国文学的解釈は、清げな姿を歌の本意のように、文字通りの、どこか幼い、あるいは頑固な、季節感を詠んだ歌ように解く。「色好み歌」「艶流泉湧」「絶艶之草」「至有好色之家」「心におかしきところ」など、散見する和歌に関する当時の見解を示した言葉は、全て無視されている。

 

壬生忠岑は撰者の一人である。さすがに、歌の生々しいエロスは、「玄之又玄」なるところに秘められてある。それでも「歌の様」を知り「言の心」を心得れば、千百年隔たった、今の何でもない男の心にも、それは伝わる。和歌が「目に見えぬ鬼神をも『あはれ』と思わせる(仮名序)」というのは、エロス(性愛。生の本能)が詠まれてあるからだろう。「あはれ…しみじみとした情趣…なつかしい・いとしい・いじらしい・かわいそう」。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)