■■■■■
帯とけの拾遺抄
平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。
拾遺抄 巻第八 恋下 七十四首
(題不知) (読人不知)
三百五十七 あふことはゆめのうちにもうれしくて ねざめのこひぞわびしかりける
(題しらず) (よみ人しらず・女の歌として聞く)
(逢うことは、夢の中でも嬉しくて、寝覚めの、うつつの・恋ぞ、逢えず・侘びしいことよ……合うことは、夢の中でも、嬉しくて、寝覚めの・根冷めの、乞い求めぞ、物足りず心細いことよ)
言の戯れと言の心
「あふ…逢う…合う…和合する」「うれしく…嬉しく…悦ばしい…快い」「ねざめ…寝覚め…眠りから覚めること…根冷め…情熱なくしたおとこ」「こひ…恋い…乞い…求め」「ぞ…強く指示する意を表す(こひが一義な言葉ではないことを示している)」「わびし…もの足りない…さびしい…心細い…興ざめだ」「かりける…(わび)しくありける…(わびし)かったことよ…狩りける…猟りだったことよ…むさぼりあさりだことよ」
歌の清げな姿は、恋いする夢は快楽、現実の恋は思うようにならない。
心におかしきところは、夢では快楽、ね冷めれば、求めても興ざめ。
(題不知) (読人不知)
三百五十八 わすれじよゆめとちぎりしことのはは うつつにつらきこころなりけり
(題しらず) (よみ人しらず・女の歌として聞く)
(ゆめゆめ見捨てはしないよ、約束した言葉は、現実には無情という意味だったことよ……忘れじよ・見捨てないだろうよ、夢のように契った言葉は、現実に、無情でどうしょうもない、君の心だった・貴身の情だったわ)
言の戯れと言の心
「わすれじ…忘れじ…記憶をなくさないだろう…見捨てないつもり…めんどう見つづけるつもりだ」「じ…打消しの推量を表す…打消しの意志を表す」「見…覯…媾」「ゆめと…謹んで…夢と…夢と思って…夢のように」「ちぎり…契り…約束…交情」「ことのは…言の葉…言葉…事の端々」「うつつに…現に…現実に…本意では…本心では」「つらき…心苦しい…我慢ならない…無情で嫌だ」「こころ…心…言の心…意味…(君の)心…(貴身の)の情」
歌の清げな姿は、夢のように約束した言葉は、現実には無情で嫌な心だった。
心におかしきところは、忘れはしないよ、謹んで契った言葉は、現実には、直ぐに見捨てる情だった。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。
平安時代の言語観と歌論について述べる。
紀貫之は、「言の心」を心得る人には和歌のおかしさがわかり「恋ひざらめかも…恋しくならないだろうかな・なるだろう」と述べた。「言の心」とは字義だけではない、この文脈で言葉の孕む全ての意味である。国文学は「事の心」として、全く別の意味に聞き取った。
清少納言は、「同じ言なれども、聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉(同じ言葉でも、聞く耳によって聞き取る意味が異なるもの、それが我々の言葉である)」。このように枕草子(三)に超近代的ともいえる言語観を述べているのである。枕草子は、そのような言葉を利用して「をかし」きことを数々述べている。それは、和歌の方法でもある。国文学の枕草子の読み方では、この一文を「同じ言葉でも、性別や職域の違いによって、耳に聞こえる印象が異なる」などと解く。
藤原俊成は、「歌の言葉は、浮言(浮かれた・定まりのない言葉)や、綺語(真実を隠し巧みに飾った言葉)に似た戯れであるが、其処に、歌の旨(主旨・趣旨)が顕れる」と述べた。顕れるそれは、言わば煩悩であると看破した。
国文学が曲解したり無視した、上のような言語観に立って、藤原公任の「優れた歌」の定義に従って、公任撰「拾遺抄」の歌を聞けば、歌の「清げな姿」だけでなく、「心におかしきところ」が聞こえる。歌には、今まで聞こえなかった、俊成が煩悩であるという生々しい心が顕れる。