帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第八 恋下 (三百五十七)(三百五十八)

2015-08-22 00:38:05 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄



  平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。


 

拾遺抄 巻第八 恋下 七十四首

 
          
(題不知)                     (読人不知)

三百五十七 あふことはゆめのうちにもうれしくて ねざめのこひぞわびしかりける

(題しらず)                     (よみ人しらず・女の歌として聞く)

(逢うことは、夢の中でも嬉しくて、寝覚めの、うつつの・恋ぞ、逢えず・侘びしいことよ……合うことは、夢の中でも、嬉しくて、寝覚めの・根冷めの、乞い求めぞ、物足りず心細いことよ)

 

言の戯れと言の心

「あふ…逢う…合う…和合する」「うれしく…嬉しく…悦ばしい…快い」「ねざめ…寝覚め…眠りから覚めること…根冷め…情熱なくしたおとこ」「こひ…恋い…乞い…求め」「ぞ…強く指示する意を表す(こひが一義な言葉ではないことを示している)」「わびし…もの足りない…さびしい…心細い…興ざめだ」「かりける…(わび)しくありける…(わびし)かったことよ…狩りける…猟りだったことよ…むさぼりあさりだことよ」

 

歌の清げな姿は、恋いする夢は快楽、現実の恋は思うようにならない。

心におかしきところは、夢では快楽、ね冷めれば、求めても興ざめ。

 

 
         
(題不知)                     (読人不知)

三百五十八 わすれじよゆめとちぎりしことのはは うつつにつらきこころなりけり
          
(題しらず)                    (よみ人しらず・女の歌として聞く)

(ゆめゆめ見捨てはしないよ、約束した言葉は、現実には無情という意味だったことよ……忘れじよ・見捨てないだろうよ、夢のように契った言葉は、現実に、無情でどうしょうもない、君の心だった・貴身の情だったわ)


 言の戯れと言の心

「わすれじ…忘れじ…記憶をなくさないだろう…見捨てないつもり…めんどう見つづけるつもりだ」「じ…打消しの推量を表す…打消しの意志を表す」「見…覯…媾」「ゆめと…謹んで…夢と…夢と思って…夢のように」「ちぎり…契り…約束…交情」「ことのは…言の葉…言葉…事の端々」「うつつに…現に…現実に…本意では…本心では」「つらき…心苦しい…我慢ならない…無情で嫌だ」「こころ…心…言の心…意味…(君の)心…(貴身の)の情」

 

歌の清げな姿は、夢のように約束した言葉は、現実には無情で嫌な心だった。

心におかしきところは、忘れはしないよ、謹んで契った言葉は、現実には、直ぐに見捨てる情だった。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

平安時代の言語観と歌論について述べる。


 紀貫之は、「言の心」を心得る人には和歌のおかしさがわかり「恋ひざらめかも…恋しくならないだろうかな・なるだろう」と述べた。「言の心」とは字義だけではない、この文脈で言葉の孕む全ての意味である。国文学は「事の心」として、全く別の意味に聞き取った。

 清少納言は、「同じ言なれども、聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉(同じ言葉でも、聞く耳によって聞き取る意味が異なるもの、それが我々の言葉である)」。このように枕草子(三)に超近代的ともいえる言語観を述べているのである。枕草子は、そのような言葉を利用して「をかし」きことを数々述べている。それは、和歌の方法でもある。国文学の枕草子の読み方では、この一文を「同じ言葉でも、性別や職域の違いによって、耳に聞こえる印象が異なる」などと解く。

藤原俊成は、「歌の言葉は、浮言(浮かれた・定まりのない言葉)や、綺語(真実を隠し巧みに飾った言葉)に似た戯れであるが、其処に、歌の旨(主旨・趣旨)が顕れる」と述べた。顕れるそれは、言わば煩悩であると看破した。

 国文学が曲解したり無視した、上のような言語観に立って、藤原公任の「優れた歌」の定義に従って、公任撰「拾遺抄」の歌を聞けば、歌の「清げな姿」だけでなく、「心におかしきところ」が聞こえる。歌には、今まで聞こえなかった、俊成が煩悩であるという生々しい心が顕れる。