帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第八 恋下 (三百三十一)(三百三十二)

2015-08-03 00:15:38 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰「拾遺抄」を、公任の教示した「優れた歌の定義」に従って紐解いている。新撰髄脳に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」とある。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。

清少納言は枕草子で、女の言葉(和歌など言葉)も聞き耳(聞く耳によって意味の)異なるものであるという。藤原俊成古来風躰抄に「歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨(主旨・趣旨)も顕る」とある。この言語観に従った。

平安時代の歌論にはない、序詞、掛詞、縁語を指摘するような、今では定着してしまった国文学的解釈はあえてしない。平安時代の歌論を無視し言語観にも逆らって、歌を解くことになるからである。和歌は「秘伝」となって埋もれその真髄は朽ち果てている。蘇らせるには、平安時代の歌論と言語観に帰ることである。


 

拾遺抄 巻第八 恋下 七十四首

 

(題不知)                     (読人不知)

三百三十一 あしねはふうきはうへこそつれなけれ  したはえならずおもふこころを

(題しらず)                    (よみ人しらず・女の歌として聞く)

(葦根這う沼地は、うわべこそ平然としているけれど、下は表わせないほど、君を・思う心なのよ……脚根這い伏す、憂きさまは、上の君こそ冷淡なことよ、下は、絶頂に・成り得ず、貴身を・思う心よ)

 

言の心と言の戯れ

「あしね…葦根…脚根…悪し根…おとこ」「はふ…這う…伏す…立たない…起てない」「うき…泥土…沼地…憂き…嫌々…気が進まない」「うへ…上…うわべ…上の男」「つれなけれ…平然としている…さりげない…冷淡である」「した…下…下の女…女の下」「えならず…何とも言えないほど…並みではない…得成らず…成れない」「こころを…心を…心よ…此処のお」「を…感嘆・詠嘆を表す…お…おとこ」

 

歌の清げな姿は、言い表せないほどの恋心を、葦根這う沼地のありさまを比喩にして表わした。

心におかしきところは、つれなくも、あし根這い、感の峰に上れぬ女の憂さ。

 

この歌の裏も表も知った上で、枕草子の「五月ばかりなどに」(二〇五)を読む。あえていう、国文学的文脈で読むのではなく、清少納言らと同じ、和歌の文脈で読み直すのである。

 

五月ばかりなどに山ざとにありく、いとおかし。くさ葉も水もいとあをく見えわたりたるに、うへはつれなくて、草おひしげりたるを、ながながとたゝざまにいけば、したはえならざりける水の、ふかくはあらねど、ひとなどのあゆむに、はしりあがりたる、いとおかし。

(今の学問的読みは略す……五月ばかり・暑い頃・さ尽きのころ、山里に居続ける・山ばに至らず、いとおかし。くさの端も、女もとっても若々しく見つづけるときに、うへは・男は、つれなくて、女が感極まり繁るのを、長々と立たないさまで逝けば、下は、峰に・成れない女が、深くは無いけれど・浅く、ひとなど・男のものなど、歩むときに、はしり上がっている、いとおかし)。

 

言の心と言の戯れ

「さつき…五月…夏の盛り…さ突き…さ尽き」「山里…山の麓…山ばではない」「ありく…歩く…在り来…同じ状態で居る」「草…言の心は女」「水…言の心は女」「あを…青…若い」「見…覯…媾…まぐあい」「おひ…おい…極まる」「たたざま…立っているさま…唯ざま…そのまま」「いけば…行けば…逝けば」「あゆむ…歩む…ゆっくり動く」「はしり…走り…急速に…ほとばしり」

 

このように読めば、「いとおかし」が何を意味しているか、大人なら伝わる。決して、夏の盛りに山里に居ることや、人が歩むと水が急に跳ね上がったりする現象を「いとおかし」と言っているのではない。

清少納言がいう「おかし」は、公任のいう歌の「心におかしきところ」とほぼ同じである。

 

 

(題不知)                   (読人不知)

三百三十二 かずならぬ身は心だになからなん おもひしらずはうらみざるべく

(題しらず)                  (よみ人しらず・女の歌として聞く)

(数にも入らない女の身は、心さえない方がいい、恋の・思いを知らなければ、君を・恨まないでいられるでしょう……数成らない身は、心さえない方がいい、乞う・思いを知らなければ、裏見なくてもいいでしょう)

 

言の心と言の戯れ

「かずならぬ身…数にもない身分…数にも入らない身(第二でも第三の妻でもない女の身)…数成らぬ身(多数絶頂に成れない身)」「なん…なむ…その状態を望む意を表す」「おもひ…思い…恋いする思い…乞いする思い」「うらみざる…恨まない…裏見しない(二見しない)」「見…覯…媾…まぐあい」「べく…べし…可能を推量する意を表す…出来るだろう…適当を表す…いいだろう」

 

歌の清げな姿は、わたしは何番目の妻かと思う女の、嫉妬やうらみ心を捨てる決心。

心におかしきところは、多数、感の峰に成れない女の、乞う心がなければという思い。

 

男を恨んだり厭うたりする女の思いを、詠んだ歌が古今和歌集巻第十五 恋歌五にある。題しらず、よみ人しらず(男の歌として聞く)。

みても又またも見まくの欲しければ なるゝを人は厭ふべらなり

(逢っても又逢いたく思うので、馴れ馴れしくなるのを、あの人は、もしかしてそれで我を・厭うのだろう……見ても又、股も、見たく欲するので、おとこが・萎えよれよれになるのを、女人は嫌うようだ)

 

言の心と言の戯れ

「み…見…会見…逢う…合う…結婚…覯…媾…まぐあい」「又…再び…股…股間」「なるゝ…慣れる…なじむ…熟る…萎る…よれよれになる」「べらなり…のようだ…しそうだ」

表は、自惚れおとこのおかしさ。裏は、多情な女のおかしさ。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。