帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第八 恋下 (三百五十五)(三百五十六)

2015-08-21 00:04:06 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って聞く。


 

拾遺抄 巻第八 恋下 七十四首


 

国用がむすめを藤原知光がまかりさりてのちかがみをかへしつかはすとて

かきつけける                        をんな

三百五十五 かきたえておぼつかなさのますかがみ みずは我が身のうさもまさらじ

藤原国用の娘を、藤原知光が通わなくなって去った後に、贈られた鏡台を返して遣わすということで、書き付けた、

                                                   (をんな・藤原国用の娘・清少納言らとほぼ同じ年代か)

(彼来絶えて、ぼんやり見ている真澄の鏡、この贈物・見なければ、我が身の憂さも、増すことはないでしょう・返却する……掻き絶えて、頼りなさの増す彼が身、見なければ、わたしの身のむかつきも、むなしさも、これ以上・増さないでしょう)

 
   
言の戯れと言の心

「かきたえて…彼来絶えて…彼気絶えて…彼器絶えて…掻き絶えて…こぎ絶えて…(さすがに公の拾遺集では変更され)影絶えて」「おぼつかなさ…ぼんやりとしたさま…つかみどころのないさま…頼りないさま」「ますかがみ…ます鏡…真澄の鏡…増す彼が身…嵩増すおとこ」「みずは…(鏡を)見なければ…物を見なければ」「見…覯…媾…まぐあい」「うさ…憂さ…嫌な感じ…むかつくさま」「まさらじ…増しはしないだろう」「じ…ないだろう…あるまい…打消の推量の意を表す」

 

歌の清げな姿は、男ときっぱり決別する歌。

心におかしきところは、彼のおぼつかない物と贈り物とも決別するところ。

 

この歌を、このように聞こえる文脈に入れば、以前にも書いたことだけれども、清少納言枕草子(異本一八)の「かゞみは八寸五ふん」という、短い諧謔を、(鏡は直径八寸五分・並み?……彼の身は長さ八寸五分・大きい?・小さい?)と聞いて「をかし」と笑うことができるだろう。


 貫之は「鏡」に字義以外の意味があることを教示するためだろう、土佐日記(二月五日)に、次のようになことを書いた。


 風が吹いて乗っている船は漕げども漕げども進まない。むしろ退いてゆく。船頭の言う通り住吉の明神に幣を奉るが、風波は止まない。幣ではだめだ、海神(女)の「嬉しと思う物をたてまつり給え」という。「如何はせん」と、大切な一つしかない「鏡…彼が身」を「海…神…言の心は女」に、うちはめたところ、うちつけに、海(女…憂み)は鏡の表面のようになった。かみ(神・女)の心を見てしまったことよとある。

「かみ…神…髪…女」「うみ…海…産み…女」と心得ていれば、「かがみ」にも、鏡以外に何の意味(言の心)が有るか察しがつき、心得ることができるだろう。

 

 

題不知                        読人不知

三百五十六 ゆめにさえ人のつれなく見えつれば ねてもさめても物をこそおもへ

題しらず                      (よみ人しらず・女の歌として聞く)

(夢にさえ、あの人が冷淡に見えたので、寝ても覚めても、あれこれと思い悩む……夜の夢で、さえ・小枝、あの人が無情に情けを交わしたので、寝ても覚めても、物をこそ、心配している)

  
    
言の戯れと言の心

「ゆめ…将来の夢…寝て見る夢」「さえ…追加・添加の意を表す…小枝…小肢…おとこ」「さ…小…美称…蔑み」「見…覯…媾…まぐあい」「物を…あれこれと…言い難きことを…物お…おとこを」「こそ…強く指示する意を表す」「おもへ…思ふ…考えている…恋いしている…心配している…哀しんでいる」

 

歌の清げな姿は、冷淡にされた夢を見て、心配し哀しく思う、女の恋心。

心におかしきところは、小枝が、夢のように儚く、心細く感じたので、物をあれこれ心配する女心。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。

 

平安時代の言語観と歌論について述べる。


 紀貫之は、「言の心」を心得る人には和歌のおかしさがわかり「恋ひざらめかも…恋しくならないだろうかな・なるだろう」と述べた。「言の心」とは字義だけではない、この文脈で言葉の孕む全ての意味である。国文学は「事の心」として、全く別の意味に聞き取った。

 清少納言は、「聞き耳異なるもの(聞く耳によって聞き取る意味が異なるもの)、それが我々の言葉である」。このように枕草子(三)に超近代的ともいえる言語観を述べているのである。皮肉なことに、今の国文学の枕草子の読み方では、このようには聞こえず、全く別のありふれた意味に聞こえている。

藤原俊成は、「歌の言葉は、浮言(浮かれた・定まりのない言葉)や、綺語(真実を隠し巧みに飾った言葉)に似た戯れであるが、其処に、歌の旨(主旨・趣旨)が顕れると述べた。それは、言わば煩悩であると看破した。

 国文学が曲解し無視した、上のような言語観に立ち、藤原公任の「優れた歌」の定義に従って、公任撰「拾遺抄」の歌を聞けば、歌の「清げな姿」だけでなく、「心におかしきところ」が聞こえる。歌には、今まで聞こえなかった、俊成が煩悩であるという奥深い心があることがわかる。