帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集 巻第一 春秋 (百五と百六)

2012-05-17 00:22:34 | 古典

  



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知らず、紀貫之の云う「言の心」を心得ないで、和歌の清げな姿のみ解き明かされて来た。藤原公任は、歌には心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。言の心を紐解きましょう。帯はおのずから解け人の心根が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第一 春秋 百二十首(百五と百六)


 よそに見てかへらむ人に藤の花 はいまとはれよ枝は折るとも 
                                     (百五)

(よそよそしく見物して、帰るような人に、藤の花、這いまとわり付けよ、わが蔓の枝は折れても……よそよそしく見て、帰るような男に、女花、這いまとわり付けよ、男の身の枝折れようとも)。


 言の戯れと言の心
 「見…覯…媾…まぐあい」「人…人々…男」「藤の花…つる枝の花…女花」「枝…つる枝…女花の枝…身の枝…おとこ」「折るとも…折れても…へし折ってでも」「折…逝」。



 きても見む人のためにとおもはずは 誰かからましわがやどの草 
                                     (百六)

(来ては見物するだろう人の為にと思わなければ、誰が刈るだろうか、我が宿の草……来てもいきても見よう、ひとのためにと思わなければ、誰が涸るだろうか、わがやどの女よ)


 言の戯れと言の心
 「きても…来ても…極みが来ても…果てが来ても…何が来ても」「見…覯…媾…交」「む…推量を表す…意志を表す」「人…人々…女」「かる…刈る…引く…採る…めとる…枯れる…涸れる」「草…女よ…女たちよ」。



 春歌の姿はともかくとして、もとよりおとこは、ひとを山ばの頂上に送り届けるために奉仕すべきもの、よそ見する物に容赦は要らないぞ、と聞いて心におかしいでしょう。法師の作。

 
 秋歌の姿もともかくとして、多数の女たちが侍る館の主人の歌と聞けば、心におかしいでしょう。帝の御歌と伝わる。


 この撰集の歌は、花と実を相兼ねて、実は言の戯れに包まれ「玄之又玄」である。その艶なるところを楽しむために、撰ばれ並べられてある。

 


 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず

 
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九 新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。