帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集 巻第一 春秋(九十三と九十四)

2012-05-10 00:31:51 | 古典

  

 

 

          帯とけの新撰和歌集

 

 歌言葉の戯れを知らず、紀貫之の云う「言の心」を心得ないで、和歌の清げな姿のみ解き明かされて来た。藤原公任は、歌には心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。言の心を紐解きましょう。帯はおのずから解け人の心根が顕れる。

 

 紀貫之 新撰和歌集巻第一 春秋 百二十首(九十三と九十四)

 

 かはづ鳴く神奈備川にかげ見えて いまやさくらむ山ぶきの花 

                                    (九十三)

(蛙鳴く神奈備川に映る影みえて、今、咲くのだろうか、山吹の花……をみな泣くかみ靡かはに、陰りみえて、今や、ひきさくのだろう、山ばの女の華)。

 言の戯れと言の心

 「かはづ…蛙…川津…鳴くもの…女」「神なび川…川の名…名は戯れる、かみ靡く川、女なびくかは」「かげ…影…水に映ったもの…陰…陰り」「さく…花が咲く…華が咲く…裂く…ひきさく」「やまぶきの花…草花…女花…山ばで咲く女の華」「やまふく…山吹く…山の噴火、噴煙…山ばでの噴射、噴出…おとこのさが」。

 「やまぶきの花」は、女花として次のようにも詠まれている。万葉集 巻十九、「妹に似る草と見しより我が標めし 野辺の山吹誰か手折りし」。

 


 濡れてほす山路のきくのつゆの間に いつか千歳を我はへにけん 
                                    (九十四)

(濡れては乾く山路の草花の露の間に、いつ、千歳を我は経ていたのだろうか……しっとり濡れて、しつくす、山ばの路の、女の華の、ほんの少しの間にいつ千歳も、我は過ごしていたのだろうか)。


 「濡れて干す…自然の営み…俗世の自然な営み」「濡れて…露に濡れて…女花のつゆに濡れて」「ほす…干す…し尽くす…飲みほすのほす」「やまぢ…山路…山ばの路…山ばの女」「路…女」「きく…秋の草花…飽きの女華…久しくあるべきもの」「へにけん…経ていたのだろう…過ごしていたのだろう」。

 「きく」は、次のようにも詠まれている。古今集 巻第五 秋歌下 貫之「秋の菊にほふ限りはかざしてむ 花より先としらぬ我が身を」。「あきのきく…飽きの女華」「にほふかぎりは…色の艶やかに見える間は」「さき…女の華よりも先…逝くのが先」「わがみを…我が身を…我が身おとこ」。

 


 春歌は神奈備川に映える山吹の花を詠んで清げな姿をしている。男のさがと女のさがの時のずれ、和合の成り難さ。


 秋歌は山路の菊の露を詠んで清げな姿をしている。色事をぬけ出た男の思い。


 歌それぞれ添えられた色艶のある余情が心におかしい。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず

  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九 新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。