帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集 巻第一 春秋 (七十七と七十八)

2012-05-01 00:08:57 | 古典

  



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知らず、紀貫之の云う「言の心」を心得ないで、和歌の清げな姿のみ解き明かされて来た
藤原公任は、歌には心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。言の心を紐解きましょう。帯はおのずから解け人の心根が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集 巻第一 春秋 百二十首(七十七と七十八)

 
 散る花の泣くにしとまるものならば われ鶯に劣らざらまし 
                                    (七十七)

(散る花が泣くことで止まるものならば、わたし、春を告げて鳴く鶯に劣らないでしょうよ……散り果てるお花が、泣くことで止まるものならば、わたし、憂く非すと鳴く鳥に劣りはしませんわ)。


 言の戯れと言の心

 「ちる花…散る木の花…散る男花…果てるおとこ花」「うぐひす…鶯…春告げ鳥…今春が来たわと鳴く鳥…鳥の名…名は戯れる、浮く泌す、心に春が来た、憂く非す、いやだそれは違う」「鳥…女」「憂し…つらい…いやだ」「ざらまし…ないでしょうに…ないでしょうよ」。



 たつた川もみぢ葉ながる神なびの みむろの山にしぐれふるらし 
                                    (七十八)

(龍田川、もみじ葉が流れている、神奈備の三室の山に、時雨が降っているのだろう……絶つたかは、飽き色の端、流れる、かみ靡く見もろの山ばに、時のお雨が降っているのだろう)。


 言の戯れと言の心
 「たつた川…龍田川…紅葉の名所…川の名、名は戯れる、立つたかは、多多かは、絶ったかは」「かは…川…水…女…だろうか…疑問を表す」「もみぢ葉…飽き色の端」「は…葉…端…身の端」「かむなび…神奈備…所の名…名は戯れる、神靡…かみ靡く」「かむ…神…かみ…女」「みむろ…山の名…名は戯れる、三室、み諸、見複数」「山…山ば…感情の山」「しぐれ…時雨…晩秋の雨…紅葉を散らす雨…初冬のつめたいお雨…その時のおとこ雨」「らし…に違いない…きっと何々だろう」。



 春歌は、散る梅の花と鶯を詠んで清げな姿をしている。言の戯れに、お花の散り際の女の思いが強く顕れている。


 秋歌は、散った紅葉と時雨を詠んで清げな姿をしている。言の戯れに、人の和合の果てが鮮やかに顕れている。


 春歌と秋歌「各各相闘」とか「各又対偶」と、貫之がいうのに相応しい歌の内容と配置である。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九 新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。