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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集巻第一 春秋 百二十首(百十五と百十六)
花もみな散りぬるあとはゆく春の ふるさととこそなりぬべらなれ
(百十五)
(春の花みな散ってしまった跡は、去り行く春の、古里となってしまったようだ……お花も華もみな果ててしまった後は、逝く春の情が、古さとと、なってしまったようだ)。
言の戯れと言の心
「花…木の花…草花…おとこ花も女の華も」「ちる…散る…果てる」「ぬる…ぬ…てしまった…完了した意を表す」「あと…跡…後」「ゆく春…去る季節の春…逝く春の情」「ふるさと…故郷…古里…古い女…古妻…老婆」「さと…里…さ門…女」「べらなれ…べらなり…のようすだ」。
みち知らばたづねもゆかむもみぢ葉を 幣とたむけて秋はいにけり
(百十六)
(路を知れば、訪ねても行こう、もみじ葉を幣と思って、手向けして、秋は去って行ったことよ……路知れば、訪ねて行こう、飽き色の端をぬさのつもりで、ひとに捧げて、飽きは過ぎ去ったなあ)。
「もみぢ葉…飽き色の端」「ぬさ…幣…神にたむけるもの…女に捧げるもの…おとこ…おとこの情念」「と…と思って…のつもりで」「あき…秋…季節の秋…飽き満ち足り」。
春の花がみな散ってしまった景色と、もみじ葉散らかして去った秋の景色は、歌の清げな姿。
お花も女の華も果ててしまった春の暮れの気色と、厭き色の端をぬさのつもりで手向けて過ぎ逝く飽きの気色は、歌の心におかしきところ。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。