帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔八十九〕む名といふびわ

2011-06-10 00:25:59 | 古典

 



                                   帯とけの枕草子〔八十九〕む名といふびわ



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言 枕草子〔八十九〕無名といふ琵琶


 無明という琵琶の御琴を、主上が持って渡ってこられているので、見たり、かき鳴らしたりするというのは、弾くのではなくて、緒などをてまさぐりにして(緒などを手まさぐりにして…緒をもてあそんで)、「これが名よ、いかにとか(この琵琶の名よ何にといいましたかしら…これの名よ、何といったかしら)」と申し上げると、「たゞいとはかなく、名もなし」とおっしゃられたのは、猶いとめでたしとこそおぼえしか(やはりとってもすばらしいと思えたのである…なお、いと愛でたしとこそ、お・棒・枝・子か)。

 
 淑景舎(宮の妹君)わたってこられて、御物語のついでに、「わたしのもとに、とってもかわいい笙の笛があるの、故殿が与えてくださったのよ」とおっしゃると、僧都の君(宮の弟君、隆円)、「それは隆円に賜え、わがもとに愛でたい琴がある、それと替えてくれ給え」と申されたのを、淑景舎は聞きも入れ給わないで、他の事だけおっしやっているので、応えさせ奉らんと、何度もおっしゃるのに、なおも、ものもおっしゃらないので、宮「いなかへじとおぼしたる物を(否、替えじと思っているものを・無理強いしてはいけません……否なのか返事はと思っているものを・返事してあげなさい)」とおっしゃられる御気色の、いみじうをかしき事ぞかぎりなき(とってもおかしいこと限りない)。

この笛の名は僧都の君もお知りにならなかったので、お言葉をただ恨めしいとだけ思っておられたようだ。これは職の御曹司におられた頃のことであるはずで、主上の御前には「いなかへじ」という名の笛があったのである。

御前にあるものは、御琴も御笛もみな珍しい名が付いている。玄上、ぼくば、ゐで、ゐけう、無明など。また、和琴なども、くちめ、しほがま、二貫などと申される。すいろう、こすいろう、うだのほうし、くぎうち、葉二、なにくれなど多く聞いたが忘れてしまった。

 
 「宣陽殿の一の棚に(収めるべき名品ですな……収めるべき名言ですね)」という、ことぐさ(言い草)は頭の中将がしていた。

 言の戯れを知り言の心を心得ましょう
 「を…緒…お…おとこ」「ただはかなく名もなし…この琵琶は唯はかなくて名も無い…おは唯はかなくて名もない…おとこは、緒、穂、棒、枝、子などと呼ばれるけれども名ではない。特性は、はかないこと」「はかなし…格別では無い…もろく頼りない」「いなかへじ…否、換えじ…否か、返事」「宣陽殿の一の棚…御物のうち最高級品の置かれた棚」。

 


 諧謔やあだ名には、複数の意味があってこそおかしい。その余りの情を「をかし」と感じる。ここでは、「緒…お…おとこ」というような言の戯れを知らないと、それが聞こえないので、おかしくは無い。


 頭の中将(斉信)は、相手の歌や諧謔を褒めるとき、「すばらしいお歌ですな、宣陽殿の一の棚に、収めましょう」とか、「名品ですなあ、その名言、宣陽殿の一の棚に収めましょう」などと、口癖のように言う人。

 

此の頃は、宮の兄たち(伊周、家隆)が、叔父道長との争いに敗れたころ。遺された人たちこそ哀れ。ただし、あえて、愚痴や泣き言は書かないのである。人に侮られるだけだから。


 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず  (2015・9月、改定しました)

 
 原文は「枕草子 新日本古典文学大系 岩波書店」による