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帯とけの枕草子〔八十七〕ほそたち
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言 枕草子〔八十七〕細太刀
ほそたちにひらをつけて、きよげなるおのこの、もてわたるもなまめかし。
文の清げな姿
細太刀に平緒付けて、身なりの良い男が、携えて通るのも、優美である。
文の心におかしきところ その一
細身のお方で、ふつうのおを付けて、清げな男が、女のもとへ・渡ってゆくのも、初々しく艶っぽい。
文の心におかしきところ その二
頼りなさそうなお人に、ひたすらなおをつけて、けがれのないおのこが、もてわたるも、初々しくもなまなましい。
言の戯れを知り紀貫之のいう「言の心」を心得ましょう。
「ほそ…細…繊細…細身」「たち…太刀…つわもの…立ち…おとこ」「ひらを…平緒…平たい紐を飾りとして腰に垂らしたもの…平常の男」「ひら…平…平常…平凡…ふつう…ひたすら」「を…緒…お…おとこ」「もて…持って…(もてあそぶ、もてなすの)もて」「わたる…通り過ぎる…女のもとへ渡る…しつづける」。
言の戯れのわかる大人の女の読み物。
作者は一つの言葉で多様な意味を表現している。
第三章で「同じ言なれども、聞き耳異なるもの、男の言葉、女の言葉」と記してあるのは、われわれの言葉は、多様な意味に聞こえるもの、和歌をはじめ文芸は、多様な意味を孕む言葉で作られてあるということ。同時代の藤原公任は、歌論「和歌九品」で「上品上」と評価した歌の批評に、「これは言葉妙にして、余りの心さへあるなり」と述べるている。「絶妙に撰ばれ用いられた言葉によって、余りの情(心にをかしきところ)が表れている、その品が最上である」ということ。
後の世に、定家の父藤原俊成は、和歌の言葉について「浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕われる」と言うのも、上と同じ言語観を表している。
これらの言語観や「心におかしきところ」は、今や全て埋もれ木となった。
理性的、論理的、合理的、実証的という言葉で表される方法では、残念ながら、言の戯れも言の心も捉えることは出来ない。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず (2015・9月、改定しました)
原文は「枕草子 新日本古典文学大系 岩波書店」による