パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

「宇奈多理坐高御魂神社」

2017年05月01日 | 日記
平城京跡の東院の傍らに鎮座する神社ですが、毎月1日、15日の月2回しか開門されないとのこと。
「宇奈多理坐高御魂神社」と難し名前の神社ですが、平城京跡内にあることから由緒あるのではと気になって居ました。
5月1日参拝に行ってきました。

 

 
本殿への参道は少し鉤型       手水舎 

 
狛犬


御祭神 三座 (正面の掲示)

 高御魂尊(たかみむすびのみこと) (中座)
     高天原にましました神で、天御中主尊、神産日尊、と共に、造化の三神として、
     御徳極めて高く鎮魂の神であらせ給う。高天原に大事ある毎に主長として諸神を率いて事に当たり、
     常に天照大神を助け、八百万の神を指揮し給うた神

 天太玉命(あめのふとたまのみこと)(東坐)
     高御魂の御子、神事を掌り給う神で天岩戸の祈祷のとき、その御前で大玉を奉拝され
     祭祀を以て天照大神にお仕え遊ばされた神。

 思 兼 尊(おもいかねのみこと)(西坐)
     高御魂の御子、数多くの思慮を一身に兼ね持ち給うたと言う意で、高天原に大事あった時
     画策してならなかった事は無いと言う。
 
 


流造三間社本殿は室町初期の建築(重要文化財)


由 緒 (正面の掲示) 
延喜式内の大社で月次・相嘗・新嘗の幣に預かっていた。
古文書では、宇奈足とも菟名足とも菟足とも書いている。
武内宿祢の勧請と伝えられ
「日本書紀」によると持統天皇六年(692)二月には新羅の調を伊勢、住吉、紀伊、大倭、菟名足の五社に奉るとある。
その一社で、この神社の神戸は正倉院文書の天平二年(730)大和税帳新抄格勅符抄に載っているが、
何れも神名は菟名足となっている。
江戸時代には楊梅神社と呼ばれたこともあり、いま「うなたり社」とか「西の宮さん」とか言っているのは
近郷だけでの通称の略称である。
本殿は室町時代初期の建築遺構を残し、三間社、流造、桧皮葺で国指定の重要文化財である。
境内の一帯は、平城天皇の楊梅宮址とか春日斎宮の斎院址とかの学説もある。

(他の資料による記述より転載)
『大和志』に宇奈多理坐高御魂神社法華寺村にあり、今楊梅天神と称すとあり、式内大社の当社にあてられているが、
  横井町あたりに鎮座の社が当社だとの説もある。
  古来法華寺鎮守としてその管轄化にあったが、明治の神仏分離で紳域内の本地仏十一面観音は法華寺に移され、
  神社は地元村で祀られることになった。
  祭神は高皇産霊神・太玉神・思兼神。流造三間社本殿は室町初期の建築で、重要文化財。
『日本書紀』持統天皇の6年(692)12月24日太夫等を遣わして、新羅の調を大倭菟名足外四社に奉ったとあり、
『三代実録』貞観元年(859)4月の条に「従四位下法花寺坐神従四位上」とある外、
「延喜」の制では大社として月次・相嘗・新嘗と出ている。
  延宝9年(1681)の『和州旧跡幽考』の項に「法華寺西南辺に楊梅の天神という社あり。
  此のほとりにや。楊梅の宮をたてて天皇うつり給ふて後、五位以上を宴し給ふよし、くわしくは
『続日本紀』にあり」と、光仁天皇の宝亀4年(773)2月完成したという楊梅宮は天神社のほとりではないかといっている。
「楊梅」を転じて「桜梅」となったとみられ当社を桜梅天神ともいう。


「桜梅神社」の燈籠


境内社 
みな天孫降臨に随従された神々を祀る

 本殿向かって右
  天細女命神社(あめのうずめのみこと)天岩戸の前で神楽を舞い天孫降臨に随従された女神、芸能の祖神
  (二座一殿)
  猿田彦命神社(さるたひこのみこと)天孫降臨の時先頭に立って八街の邪神を祓い交通安全に導かれた神
  手力男命神社(たじからおのみこと)天岩戸の変の時岩戸を開いて天照大神を助け申し上げた力の強い神で
                   天孫降臨に随従された神

 

 本殿向かって左
  大宮媛命神社(おおみやひめのみこと)太玉命の御子、天照大神に仕え世を平和に導かれた神
  豊岩窓命神社(とよいわまどのみこと)天太玉命の子で、亦の名を天石門別神、御門の神(門戸の守護神・ の神)、
                    天孫降臨のとき天照大神の勅を承り、
                    思兼命、天力男命と共に豊葦原に降り給うた神



境内の神殿とは別に神饌がそなえられていました
  
右側に石仏のような…    左側の木の元に石が組まれたように(中央の石を囲むように?)


本殿には、林檎、大根、生米、神酒、清水が、境内社にも生米、塩が折敷の上に供えられ、傍には賽銭も置かれていました。
狛犬を見ていたら、ネクタイを締めた地元の老人や、年配の女性がお詣りに来られていました。月2の参詣でしょうか…。



武内宿禰の勧請とも言われ、法華寺の鎮守としての関わりや、
歴史の流れ中で遷宮を重ねながらも、
古文書の表記「宇奈足」の地に鎮座する由緒ある神社であること、
「宇奈多理」は、古文書で見られるように
「菟名足」・[菟足」・「宇奈足」などとも表記されたらしい。
地方の神社にあるように、神職「は土地の方が勤めているらしいこと、
平城京の中、東院の傍に鎮座していることなど興味が湧きます。

東院の塀越しに見る「宇奈多理坐高御魂神社」の叢林
コメント
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