京都東山七条の坂を登ると「新日吉神宮」があります。
「いまひえじんぐう」と読みます。
知らないと、「しんひよしじんぐう」と呼んでしまいそうです。
由緒によれば
『 祭神 後白河天皇
山王七社 大山咋命
妃神 賀茂玉依姫命
大己貴命(大国主命)
田心比売命
菊理比売命
大山咋命荒魂
賀茂玉依姫命荒魂
相 殿 大山咋命祖父神 素戔嗚命
大山咋命 父神 大 年 神
創祀
永暦元年1160十月十六、後白河上皇が
山王七社と相殿二坐とを御鎮祭、比叡山
の妙法院を移して当神社の別当とせられ
たので妙法院をまた新日吉門跡と称して
きた、鎮座八百年の前年の昭和三十三年
1958十月十六日に新たに後白河天皇を
鎮祭申し上げ翌三十四年十一月十一日を
もって神宮号に改称されることが公許
された。
以 上
社 務 所 』
後白河上皇が、自らの院御所(法住寺殿)に、御所の鎮守社として比叡山の鎮守社である日吉社を勧請し、院御所の鎮守として新日吉社とした。
この新日吉社の初代別当(代表者、責任者)に任命されたのが妙法院の昌雲という僧であった。
妙法院もすでに比叡山から移転しており、【延暦寺・日吉社(山王社)】・【妙法院・新日吉社】の天台宗ラインの関係があったのです。
5月14日は「新日吉神宮神幸祭(いまひえ祭)」。
東寺と伏見稲荷還幸祭と同じように、神仏習合が見られるとのことで出かけました。
12時から神幸祭前に出立祭が行われます。
拝殿の神輿は二基。
鳳輦の大きな神輿と「猿田彦命」の小ぶりな神輿が祀られています。
「出立祭」の神事が進みます。
神職・妙法院僧侶の着座、修祓、献饌…祝詞、祭文、
日吉大社の神職、妙法院の僧侶 神前に整列
修祓
大麻(おおぬさ)は風のお祓い 塩湯(えんとう)は水のお祓い
献 饌
神酒 餅
海の幸(鯛) 乾物
野菜 果物
塩・水 日吉大社のご神木「桂」
神 饌
読経・「般若心経」
焼香 玉串
柏手
出立祭を終えてご挨拶と談話
神幸祭の祭列が巡行に出て行きます
正面橋を渡る鳳輦 巡行で稚児から貰った厄除けの粽
神幸祭は神域町内を遅くまで巡行し、剣鉾も電線を避けながら、鉾振りで鈴の音を響かせ厄払いを行います。
東寺・伏見稲荷大社、妙法院・新日吉神宮ともに、寺院の読経は「般若心経」でした。
東山山麓の「粟田神社」の神輿も、「青蓮院」前で寺院から読経を受けたと記憶しています。
神仏習合は生きています。
「いまひえじんぐう」と読みます。
知らないと、「しんひよしじんぐう」と呼んでしまいそうです。
由緒によれば
『 祭神 後白河天皇
山王七社 大山咋命
妃神 賀茂玉依姫命
大己貴命(大国主命)
田心比売命
菊理比売命
大山咋命荒魂
賀茂玉依姫命荒魂
相 殿 大山咋命祖父神 素戔嗚命
大山咋命 父神 大 年 神
創祀
永暦元年1160十月十六、後白河上皇が
山王七社と相殿二坐とを御鎮祭、比叡山
の妙法院を移して当神社の別当とせられ
たので妙法院をまた新日吉門跡と称して
きた、鎮座八百年の前年の昭和三十三年
1958十月十六日に新たに後白河天皇を
鎮祭申し上げ翌三十四年十一月十一日を
もって神宮号に改称されることが公許
された。
以 上
社 務 所 』
後白河上皇が、自らの院御所(法住寺殿)に、御所の鎮守社として比叡山の鎮守社である日吉社を勧請し、院御所の鎮守として新日吉社とした。
この新日吉社の初代別当(代表者、責任者)に任命されたのが妙法院の昌雲という僧であった。
妙法院もすでに比叡山から移転しており、【延暦寺・日吉社(山王社)】・【妙法院・新日吉社】の天台宗ラインの関係があったのです。
5月14日は「新日吉神宮神幸祭(いまひえ祭)」。
東寺と伏見稲荷還幸祭と同じように、神仏習合が見られるとのことで出かけました。
12時から神幸祭前に出立祭が行われます。
拝殿の神輿は二基。
鳳輦の大きな神輿と「猿田彦命」の小ぶりな神輿が祀られています。
「出立祭」の神事が進みます。
神職・妙法院僧侶の着座、修祓、献饌…祝詞、祭文、
日吉大社の神職、妙法院の僧侶 神前に整列
修祓
大麻(おおぬさ)は風のお祓い 塩湯(えんとう)は水のお祓い
献 饌
神酒 餅
海の幸(鯛) 乾物
野菜 果物
塩・水 日吉大社のご神木「桂」
神 饌
読経・「般若心経」
焼香 玉串
柏手
出立祭を終えてご挨拶と談話
神幸祭の祭列が巡行に出て行きます
正面橋を渡る鳳輦 巡行で稚児から貰った厄除けの粽
神幸祭は神域町内を遅くまで巡行し、剣鉾も電線を避けながら、鉾振りで鈴の音を響かせ厄払いを行います。
東寺・伏見稲荷大社、妙法院・新日吉神宮ともに、寺院の読経は「般若心経」でした。
東山山麓の「粟田神社」の神輿も、「青蓮院」前で寺院から読経を受けたと記憶しています。
神仏習合は生きています。