『記紀1300年 神話と史実のはざま(このテーマが日経新聞に) 1』
―初代神武~15代応神までは神話の時代、16代仁徳以降は実在!-
日本書紀・30巻+系図1巻が39年かけて完成したのは720年。 その8年前・712年に古事記・3巻が4カ月で成立した。 奈良県では記紀1300年を記念して『記紀・万葉プロジェクト』と銘打ち9年間にわたり多彩なイベントを展開している。
日本語の元の大和言葉に漢字を取り込み、平仮名・片仮名をも創作して、今ではカタカナ語で、英語・仏語・西語などの外国語も取り込んでいます。 言語・言葉は進化していると言われますが、韓国・マレーシア・タイ・インドネシアでは、漢字(表意文字)はやめて、元の表音文字に戻っています。
昔は学校でも詳しくは教わらなかった日本の古代史ですが、『八百万の神のこと』、『天皇制のこと』、『日本語(文字なしの大和言葉、神代文字、伝来漢字、平仮名、片仮名など)のこと』等々を思うにつけ、最近のカタカナ語の氾濫などの、今の世相を見ていますと『温故知新』の大事なことを痛感します。
最近、やっと脚光を浴びていています。 縄文・弥生時代も含め、日本史古代のことが、どんどん解明されることが楽しみです。 例えば、
- 中国の魏志倭人伝(中国の歴史書「三国志」の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称)まで載っている邪馬台国のことや、卑弥呼のこと。
ウキペデイアから引用
- 初代神武~15代応神までは神話の時代、更には、北九州王朝説や出雲王国のこと。
- 21代雄略天皇の九州平定と、その後、天皇の実質的な祖先とされる、26代継体天皇から1500年も、奈良―京都―東京を都に、現在まで続いた天皇制。
- 神話の時代から、実質的な祖先とされる、26代継体天皇から1500年も、現在まで続いた天皇制は70数回の遷都を繰り替えした。
- 遷都も、70数回と天皇崩御に関連しますが、崩御した場所からは、別の場所に遷るという死生観にもあるように考えられます。
テレビ番組のドラマでも、ドキュメンタリーでも、取り上げられるのは、中世(鎌倉時代から織豊時代以前)または、近世(織豊時代以降)が多かったようです。 やはり興味が尽きないのは、天皇制を含め、古代です。
その古代は紀元前700年ごろから紀元後700年ごろまでの1400〜1500年間、最大でその前後100年を加えた1600〜1700年間です。 現在から1600年さかのぼると継体天皇の時代、1700年さかのぼると卑弥呼女王の時代です。
つまりこの国の歴史の半分以上です。 この古代を知ることには夢があります。
ウエブ情報から引用
先ずは表題の『記紀1300年 神話と史実のはざま(このテーマが日経新聞に)』の『抜粋・引用』です。
『南九州・高千穂を出発して大和を目指す「神日本磐余彦尊(後の神武天皇)前に立ちはだかる強敵・長脛彦と決戦に臨む磐余彦尊の弓の先に金色の鴉(とび)が止まり、その輝きに敵は戦意を失った。 日本書紀が記す神武東征伝のヤマ場だ。
神武東征については、弥生~古墳時代に九州から畿内に人々が大移動した形跡が見当たらず、現在では史実ではないとみられている。 他方、倭の中心が九州北部から畿内に移ったのも確かで、記紀をどう解釈すべきかの議論は続く。』
ウキペデイアから引用
大和政権のルーツは渡来人の可能性が強いので、原住民や敵対する同族への優位性を示すために神話を作った可能性があります。 東征ついては評価が分かれています。 史実とは、無縁な作り話とみる説と、皇室が九州から東に移動して畿内に大和朝廷を開いたという史実を反映したものであるという意見もあります。
『日本書紀が完成したのは720年。 その8年前に古事記が成立した。 天皇家の正統性を示すために編まれた古事記が神話を軸に物語を重視する一方、国としての体裁を整えるべく初めて編纂された公式歴史書である日本書紀は、史実が神話や権力者の思惑と混然一体となっている。』
古事記 日本書紀
編纂時期・軌間 712年・4カ月 681~720年・39年
巻数 3巻 30巻+系図1巻
和歌数 112首 128首
形式 物語調・和化漢文 編年体・漢文
扱う時代 神話の時代が3巻中1巻 神話の時代は30巻中2巻
目的 国内向けに天皇家の正統性を 国外に向けて日本をアピール
性格 天皇家の正統性を 史実や神話が混然一体
『近年「神話と史実が再び曖昧にされつつあるのでは」との懸念を研究者らが口にする。 その土地ゆかりの神話や伝承で地域の文化や経済を盛り上げようとする動きが盛んになり、行き過ぎがないかを心配しているのだ。』
『昨年、百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産となった際には、学術的には被葬者が特定されていないのに「仁徳天皇陵古墳」などと宮内庁の治定通りの名で登録された。』
『神話や伝承は含蓄に富む貴重な先人の遺産だ。 だが文化財は学知の積み重ねで価値が磨かれてきた。 その努力に敬意を払わず、歴史の真実性を軽視して話題性や経済性を優先するなら、それはご法度だろう。 日露戦争後、ナショナリズムの高揚の中で、日本文化の独自性、優位性が強調され、歴史は国民道徳の教材となり、史実よりも神話や物語が優先された。』
古代史初期は、倭国の平定(邪馬台国)➡出雲王国の国譲り➡大和王朝への流れであったように思えます。
倭国・邪馬台国(紀元1世紀から3世紀ごろ)
1世紀中葉になると、北部九州(博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国(ここで云う国とは、中国で云う国邑すなわち囲まれた町のこと)の首長が、後漢の光武帝から倭奴国王に冊封されて、金印(倭奴国王印)の賜与を受けている。
倭国王は、大陸南朝の王朝に対しては倭国王もしくは倭王と称し、国内的には熊本県の江田船山古墳出土の鉄剣の銘文に「治天下獲□□□鹵大王」とあるように、王または大王、治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)と称した。
古代出雲(紀元前1世紀から4世紀ごろ)
弥生時代からヤマト政権が成立する直前まで、出雲には「王朝」とも呼べる巨大な勢力が存在していました。したがって、考古学の成果からは「古代出雲の王朝の存在」と「その王朝がヤマト王権に取り込まれる形で衰退していく経緯」を少なからず肯定できるのです。
簡潔に言えば、大王と呼ばれた近畿地方の王が「前方後円墳」を頂点とする墓制を敷き、各地の王がそれに従うかたちで『ヤマト政権』が成立した、というのが一般的な理解なのです。
出雲西部の「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」から出土した大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語るが、豊富な神話、各地からの大量の出土品、古墳の種類の豊富さから、この地域に古くから栄えた大きな勢力があったことは確実であるとされている。
出雲国(投馬国)(紀元2世紀から紀元3世紀ごろ)
「出雲」という国名は歴史的仮名遣では「いづも」である。 古事記や日本書記に「出雲」の表記が見えるほか、須佐之男命が歌を詠む場面では「伊豆毛」(古事記)、「伊弩毛」(日本書紀)といった表記も使用されている。
大和朝廷(紀元4世紀から7世紀ころ)
隋書では、俀國は百済・新羅から東南、水陸三千里にあるとされ、その国の領域は、東西に五カ月で、南北に三カ月とされている。 607年に倭國王多利思北孤から派遣された遣隋使の使者が持参した隋への国書では、倭国王の表記を用いず、「日出處天子」と記している。 日本が発展する中で「倭」という文字は国名に相応しい意味ではないと気付き、それが理由となり「日本」という国名に改めていったという説が存在する。 その後、7世紀後半に至るまで国号の表記は倭国・倭のままであった。
その後、奈良時代の738年に表記は「大養徳」に改められた。 747年には元の「大倭」に改称。 その後、757年頃から「大和」に定められたとされる。平安時代以降は「大和」で一般化した。
国名に使用される「ヤマト」とは、元々は「倭(やまと)、大倭(おおやまと/やまと)」等と表記して奈良盆地東縁の一地域を指す地名であった(狭義のヤマト)。 その後、上記のように「大倭・大養徳・大和(やまと)」として現在の奈良県部分を領域とする令制国を指すようになり、さらには「日本(やまと)」として日本全体を指す名称にも使用された。
今後の課題は、古代史初期は、倭国の平定(邪馬台国)➡出雲王国の国譲り➡大和王朝への流れであったであろうとの夢を暫くは追いかけることです
(記事投稿日:2020/11/15、最終更新日:2021/11/17、#246)