『日本の城郭 4(江戸城は当時、世界レベルの巨大城郭)』
ー城郭・宮殿の巨大化競争の終焉、大筒・大砲の性能向上と絶対王政の限界ー
ウキペデイアから引用
中世の終りから近世始めに築城された世界の巨大な、城郭・宮殿の大きさ(最大時)の比較をすると、この時代の大筒・大砲の射程距離4-6kmと命中精度を考慮してか、城郭・宮殿はどんどん大きくなった。
巨大化は、大筒・大砲攻撃に備えると、同時に権威の象徴でもあった。 武田流軍学の、『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』とあり、城を強固にしても、人の心が離れてしまえば世の中を収めることができないと。 これとは、真逆で、どこかの集団(イスラムの一部)がやる『人間の盾・ヒューマンシールド』には絶句です。
城郭・宮殿の大きさランキング
1位:フランス・ベルサイユ宮殿、約107平方km、周囲約42km
2位:中国・紫禁城、内城・外城合計、約63平方km、周囲約33km
3位:日本・江戸城、約25平方km、 周囲約18km
4位:トルコ・コンスタンティン―プル、約15平方km、周囲約21km
5位:日本・小田原城、約4平方km、周囲約9km
6位:日本・大坂城(豊臣)、約4平方km、周囲約8km
本来の外堀の、外側の惣濠(川・空堀含む)は、❶北の大川・寝屋川、➋東の猫間川、❸南の空堀、
❹西の東横堀川で、周囲約8km
番外:英国・ヨーク城 約0.2平方km、周囲約4.5km
番外:中国・万里の長城 総延長8,852km
この時代には、城によっては、城下町を取り込んで、城も大きくなった。
しかし豊臣の大坂城は、秀吉の『秀頼・兄弟のない一人っ子の世継ぎを守る不落の城郭』の期待も及ばず、大坂冬の陣では、大砲を天守閣に、一発撃ち込まれただけで、淀殿のみならず籠城派の精神的ダメージが 大きく和議となった。 それを反面教師に徳川江戸城は完成当時は世界トップクラスの規模であった。 大坂城は周囲約8kmのほぼ正方形、江戸城は周囲約18kmのほぼ円形で、砲撃に備えた縄張り。
大坂城の弱点は、水堀のない南側だったが、期待された強固な守りの北側は自然の地形を利用した大川の守り。 攻める徳川方は約2百門の各種の大筒・大砲の大半をこの大川の対岸(天守閣まで距離約2km)に並べた、これが豊臣側の脅威となった。
大坂冬の陣に備え、下記の最新式大砲まで装備していた。
- カルバリン砲 家康が大坂の役に備えてイギリスから4門購入。鋼鉄製。射程6300m。
- セーカー砲 大坂の役に備えてイギリスから1門購入。カルバリン砲以上の射程距離
これで徳川の大川対岸の大筒・大砲陣地から天守を砲撃したが、家康の作戦通り、威嚇攻撃であった。 家康は『攻城』を『野戦』の延長と考え殲滅作戦は、とらなかったと思われる。 秀吉は『野戦』よりは、いつも『攻城』であった。 例外は、家康との『小牧長久手の戦い』くらいが野戦であったが、それは引き分けより負けに近かった。 その城攻め得意の秀吉の大坂城の規模は、何故か、徳川江戸城と比較、面積で1/6、周囲で1/3と小さかった。 大坂に築くには小田原城規模で精いっぱいだった。
繰り返しになりますが、大阪冬の陣(1614年)での大筒・大砲の効果は、破壊力より精神的ダメージを与えることに有効で、徳川方に有利な和議に持ち込まれたのは歴史の事実(この時代、大筒・大砲で城は落とせなかった)。
似ても似つかない大型化・小型化の余談です。 本川達雄氏の『ゾウの時間ネズミの時間』の引用です。 大陸では大きな動物はどんどん大きくなる。
フランスのベルサイユ宮殿と、英国のヨーク城の比較での極端な差は、納得するも、 何故か、島国日本の江戸城の巨大さは特別で、他の島国にはこのような巨大な城郭・宮殿は、歴史上存在せず、不思議なことです。
更なる不思議は、ウェブ情報からです。
日本列島には、3万とも4万ともいわれる城跡が存在する。 それらの大半は14世紀から17世紀までの間に築かれたものである。 わずか300年間にこれだけの城が構えられたことは世界史的にみても日本だけであり、日本の中世は、まさに大築城時代であった。
ヨーロッパの城郭は、山や丘の天辺が多いと思ってましたが、丘を中央に周囲の街を取り囲んだ城壁で城郭ができているケースが多い。 ヒトの考えることは、いつも同じところに着地点です。
再びウェブ情報です。
ヨーロッパには、周囲を城壁で囲まれた都市が多い。例えば、ブランデンブルク(Brandenburg) やフライブルク(Freiburg)、フランスのストラスブール(Strasbourg, ドイツ語ではシュトラス ブルク(Straßburg))のように、-burg という語尾を持つ都市の名を聞いたことがある方は多いだろう。 ドイツ語のブルク(Burg)は中世の城砦から転じて、都市や町という意味であり、ドイツ 語のビュルガー(Bürger)やフランス語のブルジョワ(bourgois)は、そこに住む都市民のことを指す。 英語に目を転じれば、古英語の burgess は、自治都市の市民という意味である。
日本の群雄割拠の戦国時代は畿内五ヶ国の覇者を狙うだけであったが、その後の築城も含め城跡は3-4万、あの広い中国でも『戦国七雄』だが、『都市、イコール、城市』で、あるので城跡・城壁の街を含め十数万か。 ヨーロッパの中世にも城跡が多く存在しやはり数万以上、それでも日本の城跡数は多いです。
(20170526纏め、2120125追補、#064)