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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

松陰神社・松下村塾、松陰の墓(山口県萩市大字椿東)

2013年07月02日 | 神社・仏閣
東光寺受付所の方に松陰の墓、松陰神社について、車での行き方や駐車場の場所など丁寧に教えていただいた。
当日は松陰の墓から松陰神社に向かったがブログでは順序を変えて掲載した。
旅先ではできるだけ多くの人と接したいので積極的に挨拶をしたり、話しかけるなどの努力をしているが、萩の方々は本当に親切に応えていただける。


松陰神社
明治23(1890)年に吉田松陰を祀って建てられた神社。
松下村塾改修時に松陰の実家である杉家により私祠として村塾の西側に土蔵造りの小祠が建立された。
その後、門人の伊藤博文、野村靖などが中心となり、神社を公のものとして創設しようという運動が起こり、明治40(1907)年、県社の社格の神社創設が許可された。現在の社殿は昭和30年に新しく完成したもの。
御神体は松陰が終生愛用した赤間硯と父兄宛に書いた文書が遺言によって納められている。
旧社殿は「松門神社」として、松陰の門人であった人々の霊を祀っている。
学問の神として信仰が厚く、境内には有名な松下村塾、松陰ゆかりの史跡や展示館などが点在。吉田松陰幽囚ノ旧宅も隣接している。
















松下村塾(史跡)
松下村塾は当初からあった8畳の1室と、後に塾生徒との労力によって増築した10畳半からなっている。
初め松陰の叔父が自宅で私塾を開き、松下村塾と名付けていた。
安政4年(1857)11月5日、28歳の松陰がこれを継ぎ講義を行った。
安政5年11月29日までの1年間塾生と過ごした。
松下村塾では、身分にとらわれず集まった若者達を、強い志と誇りを持って行動する日本人に育てた。













吉田松陰の墓
万延元年(1860)2月7日が松陰没後100日にあたり、杉家では百日祭を営み、護国山団子岩の吉田家墓地に親戚、高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ在萩の門人のほとんどが出席し故人の霊を弔い遺髪を埋葬した。
「松陰二十一回猛士墓」とある墓碑は同月15日に建立。墓前の水盤や花立は、門人や妹たちが名前入りで寄進したもの。
当時、松陰は第1級の大罪人であり、その松陰へ対し名前を刻んでの寄進は当時としては勇気のいる行動であった。
それだけ松陰が門人たちから慕われていたということが伺える。


吉田松陰の墓
吉田家第7代大助の養子。実父杉百合之助の次男。松下村塾を主宰し、多くの俊才を育てた。安政6年(1859)江戸伝馬町の獄にて処刑される。行年30歳



高杉晋作の墓
松下村塾に学び吉田松陰門下の逸材。久坂玄瑞と並ぶ松下村塾双璧の一人。騎兵隊を設立。慶応3年(1867)没。行年 29歳



久坂玄瑞の墓
松下村塾に学び吉田松陰門下の逸材。高杉晋作と並ぶ松下村塾双璧の一人。
松陰の妹、文と結婚、蛤の門の変で戦い負傷して自決した。 行年25歳




吉田松陰先生銅像
明治維新100周年を記念して昭和43年(1968)に建立。
松陰が弟子の金子重輔を従え、下田沖のペリー艦隊を見つめている姿を彫刻した。
高さは約8m、題字は当時の佐藤栄作首相が書いた。




俳人伊藤柏翠


現代にも松下政経塾という政治塾から多くの政治家を輩出しているが、松下村塾と似て非なるものとならぬよう期待したい。

撮影 平成25年5月16日
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護国山 東光寺(山口県萩市大字椿東字椎原)

2013年07月02日 | 神社・仏閣
ブログ作成は時間も要するし結構疲れる。特に撮影した写真を整理するのが下手な私にとっては一大作業になる。
この2・3日は目の疲れからか頭痛もしてきた。少し休もうかなと思っていたところ、女性からのコメントが入っていた。
初めてコメントを送信されたようだが、私も女性からのコメントは初めての経験で今日は記念すべき日になった。単純だがやる気が出てきた。


護国山 東光寺の歴史
元禄4年(1691年)萩藩3代藩主毛利吉就が建立した。
吉就は若くして黄檗宗に帰依して、本山黄檗万福寺に範を求めて広壮な堂を建立。萩出身の高僧・慧極道明禅師を開山に迎えた。吉就の死後、ここを墓所とし毛利氏の菩提寺となった。
仙台藩伊達家の大年寺、鳥取藩池田家の興禅寺と並んで黄檗宗三大叢林のひとつ。


総門(重要文化財)
東光寺開山の慧極禅師は当寺が創建された翌年の元禄5年(1690)9月に晋山したが、総門はその頃竣工したものと推定される。



総門正面には慧極筆の「護国山」の額が掲げてあるが、「元禄癸酉六年孟春吉日(西暦1693年)」と年期が記されている。
三間二戸八脚門(正面柱間が三間、側面柱間が二間、左柱間に扉、右柱間に板壁、八つの控え柱を持つ)、一重切妻造段違本瓦葺きで、棟の端にはシャチ(鯱)の代わりに摩伽羅を飾り、中央持ち上げの棟式屋根は黄檗風の様式である。




三門(重要文化財)
この門は東光寺が創建されて121年後の文化9年(1812)9月19日に竣工した。
藩主毛利斉熙が寄進したもので、「文化八年辛未七月念有八日始斧」・「同九歳次壬申九月十有九日竣工」の棟札がある。
規模は地方寺院のものとしては有数で、桁行11.6m、梁間6.7mの三間三戸(柱間が三つ、戸口が三つ)の二階二重門。
入母屋造り本瓦葺き、棟の両端は鯱付き鬼瓦備え、中央は露盤宝珠備えで、ケヤキの素木造りとなっている。
2階には周囲に通し縁があって、内部には十八羅漢等が安置されている。






「解脱門」の額は即非禅師、「最勝閣」・「布金祇園」の額は当山十五世大愚衍操禅師によるもの。










鐘楼(重要文化財)
鐘楼は、黄檗宗特有の一重もこし付きの素木造二層式の建物。
屋根は入母屋造りで上層部は本瓦葺き、下層部は桟瓦葺きとなっている。
上層内部には、毛利家四代藩主・吉広公が当事の藩における鋳物師の名工郡司喜兵衛・源太夫父子に命じて鋳造させ、寄進された大鐘がある。
この大鐘の銘は開山の慧極禅師の撰によるもので、それには元禄7年(1694年)5月15日、すなわち当山開基の毛利家三代藩主吉就公の葬儀が行われた翌日の日付が入っている。
この鐘楼は鐘の完成と同じに建てられたもの。







大雄宝殿(重要文化財)
東光寺の大雄宝殿(本堂)は元禄11年(1698年)12月に竣工した。
一重裳階付き、入母屋造、本瓦葺きで、用材はクサマキ。黄檗宗では本堂を大雄宝殿と呼ぶが、「お釈迦様のいらっしゃる所」という意味。
堂内は土間叩仕上げで、中国明時代の法要の法式を継承する黄檗宗の読経は現在でも立ったまま行う。須彌壇上には本尊として、釈迦如来、脇士迦葉尊者、阿難尊者の三尊仏を安置している。
大雄宝殿前には、行事や法要の時など堂内に入りきれない人々の為に月台という広場が設けられている。同殿は中国風建築物であるため、障子の桟が日本と逆に外側にある。










萩藩主 毛利家墓所(国指定・史跡)



御廟(おたまや)ともいわれるこの墓所には、東光寺開基の3代藩主毛利吉就公から11代までの奇数代の藩主ならびにその夫人の墓が正面に、また、それらの右手、左手と入口手前に一族関係者の墓がある。



墓所内に整然と左右均等に並んでいる約五百数基の石燈籠。
この石燈籠は家臣らが寄進したもので、その一基一基に弔う藩主・夫人の法名と寄進者名・年月日が刻んである。




墓の形式は五輪塔形の大照院のそれと違って唐破風の笠石付き角柱(位牌)の形に統一してあり、法名が刻んである。
法名が赤字で書いてある墓は、生前に立てられた墓ではないかといわれている。







墓所内閣藩主墓前の碑は黄檗宗では亀趺(きふ)と呼ばれている。
墓前に亀趺を立て、碑文に行蹟、徳望を綴る習慣は江戸時代初期、中国から伝来した。
亀の顔が一つひとつ違うことや、亀が北を向いていることについては特に意味はない。 


  

この墓地の造営にあたっては、入口の門よ墓碑に到る参道の設計や仕切り石の捉え方などに黄金分割や遠近法が巧みに用いられ、その荘厳美をみごとに演出し、当時の造営技術の水準の高さを知ることができる。



NHK大河ドラマ「太閤記」のオープニングに使用された鬼瓦

  

寶筐印塔
毛利家歴代諸霊位のための供養塔、安永3年(1774)に建てられた。塔にはさまざまな形があるが、この宝筐印塔は五輪塔と並んで石塔の二大主流をなす。




撮影 平成25年5月16日
コメント (1)
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