今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

上野山 福祥寺<須磨寺>(兵庫県神戸市須磨区須磨寺町)

2013年07月23日 | 神社・仏閣
フェリーの関西のご夫婦が話してくれたもう一つの寺がご夫婦の地元須磨寺だった。
時間的に厳しいものはあったが、高速道路にて向かう。民間の駐車場に駐め、道を尋ねながら急ぎ足で寺の境内に入る。
普通は山門から入るが今日は写経輪堂の横側から。午後4時を過ぎていたので、何も考えずに視界に入る建物を写真に撮る。


真言宗須磨寺派大本山 上野山 福祥寺(須磨寺)の歴史
須磨寺略歴縁起(寺蔵)によれば漁師が兵庫区和田岬沖で引き上げた聖観世音菩薩を安置するために淳和天皇の勅命により、兵庫区の背山恵偈山北峰寺を建立。
後に、仁和2年(886年)光孝天皇の勅命により開祖聞鏡上人須磨上野山福祥寺を建て本尊と祀る。
南北朝時代から江戸時代にかけて歴代住職が書継いだ、当山歴代(県指定文化財)によれば、本尊聖観音は嘉応元年(1169年)源頼政が安置した。

正式名は上野山 福祥寺(じょうやさんふくしょうじ)であるが、古くから「須磨寺」の通称で親しまれてきた。
平敦盛遺愛の青葉の笛や弁慶の鐘、さらに敦盛首塚や義経腰掛の松など、多数の重宝や史跡があり「源平ゆかりの古刹」として全国的に知られている。
古来より源平の浪漫を偲んで訪れる文人墨客も数多く、広い境内のあちこちに句碑・歌碑が点在している。


寺に入るのにやはり門から入らねばと失礼と思い、近くに門を探しいったん出てから一礼して入山した。
長い階段の下にも門らしきものはあったが閉門時間が迫っていたので今回は行かなかった。




本堂
仁和二年開創当時の本堂には、松風村雨物語で有名な在原行平が参籠して、勅勘を許されたと伝えられるが、その後、火災、洪水、地震などの災害によりたびたび建て直された。
現在の本堂は慶長七年(1602)豊臣秀頼が再建したもので、建築奉行は片桐且元。
但し内陣の宮殿は応安元年(1368)の建造になり、重要文化財。本尊聖観世音菩薩、脇侍毘沙門天、不動明王が祀られている。
昭和47年、文化庁の指導で全面解体修理が行われ、600年前の姿に復原された。
この後、阪神淡路大震災の被災を乗り越え、平成17年にも復元のための修理が行われ現在の姿になっている。











本堂右横が奥の院の入口。
経験上奥の院にはよいものがあるとの思いから、時間を考え、いっきにのぼりきった。もちろん、動悸や息切れは激しかったが。


奥の院
宗祖弘法大師が祀られている。毎月第2日曜の奥の院法要には多くの善男善女でにぎわいをみせる。
奥の院参道沿いにある十三佛・七福神巡りは亡き人の追善供養、お子さまや家族縁者の無事と成長、そして自身の現在と後生の安心(あんじん)を願うお参り。










高野山遙拝所。石版を円くくり抜き、のぞきたくなるようにうまくつくっている。



ふれあいの布袋さん
七福神の中では唯一実在の神様で弥勒菩薩の化身といわれている。何事にもとらわれず、いつも笑顔で福のつまった大きな布袋を持ち歩き、全ての生きものに福を与えることを喜びとしている。




大きく変形した木



奥の院参道横の13佛のひとつ
干支でいうと私の仏様はこの「普賢菩薩」である。
 

 
次の写真の後ろに写っているのは悪霊ではなく私自身の姿である。




弁慶の鐘
元は山田村安養寺の鐘。
一ノ谷合戦のとき武蔵坊弁慶がこれを長刀の先にかけ、前に提燈を吊るして鵯越を担ぎまわって陣鐘に代用していた。
釣合わざるを「提灯に釣鐘」というがこれより始まったといわれている。







写経輪堂






大師堂
宗祖弘法大師ならびに真言八祖を祀っている。
毎月20日、21日に「須磨のお大師さん」として縁日があり、十数万の信者の参詣がある。
大正時代の一時期、この堂には孤独奇矯の自由律の俳人尾崎放哉が堂守りとして住み込んでいた。
彼はここで多くの句作を残したが、特に「こんなよい月をひとりで見て寝る」の句は最傑作として、今、本堂前の句碑に刻まれている。平成19年修復。








三重塔
弘法大師1500年御遠忌、当山開創1100年、平敦盛卿800年遠忌を記念して昭和59年に再建された。(旧塔は400年前の文禄大地震の際に倒壊。)
室町時代様式を基調とし、内部には大日如来を祀っている。
内陣の天井と壁面に多数の摶仏を配し、四方扉の内面に八祖像と六ヶ国語による般若心経を刻銘したことや、塔上の水煙に釈迦誕生像を配したことなどがこの塔の特徴となっている。
塔敷地の周囲には四国八十八カ所お砂踏み霊場があり、各札所の砂をガラス越しに踏んでお詣りができる。










敦盛塚(首塚)
この首塚(五輪塔)は、寿栄三年(1184)年2月7日に起きた一の谷の戦いで、熊谷直実に討たれ戦死した平敦盛の菩堤を弔う為に建立された。
因みに、須磨浦公園にある『敦盛塚』には胴体が祀られている。





 

源義経卿腰掛松
義経がこの松に腰を掛けて平敦盛の首を実際に確かめたと伝えられる。よって一名首実検の松ともいわれている。



源平と須磨寺
平敦盛公は平清盛公の弟平経盛公の子で、従五位に叙せられたが、官職が無かったので世に無官の大夫と言われた。
一の谷合戦で、源氏方の熊谷次郎直実公に討たれる。(1169~1184)
平家物語によれば寿永3年2月鵯越えの坂落としにより、平家方が惨敗を喫し、海岸へと味方の船を求め殺到した。
直実も平家方を追って、沖の方へ馬を泳がせている若い武将を見つけた。
「後ろを見せるとは卑怯なり、返せ、返せ」と呼んだところ、若武者は馬を戻した。
二人は一騎討ちとなり、共に馬から落ちて組み合いとなった。直実が勝って、首を取ろうと相手の顔を見た。
あまりに美しいので、名前を尋ねると、自らは名乗らず、直実に名乗らせた。
その名前を聞いて「良き名前なり、我が名は誰かに聞けば知っている者もあろう」と言って、首を差し出した。
直実はためらったが、他の味方の兵士が近付くのを見て、涙をのんで、その若武者の首をはねた。
その時に、若武者の腰の笛に気づいた。その戦の朝、陣中で聞いた美しい笛の音色は、この若武者のものであったのかと思いいたった。
このことから、直実は、殺し合わねばならない戦の世に無常を感じ、出家を決意することになる(後に熊谷蓮生坊)。
この笛が小枝の笛と呼ばれる通称青葉の笛である。


撮影 平成25年5月23日

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1 コメント

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悪霊とは言い得たり (半覚齋)
2013-07-23 21:39:35
普賢菩薩写真に写り込んだ、貴殿のお姿はご自身が言われるように悪霊のごときで妙におかしく拝見しました。まじめなコメントの中にも、しゃれやジョークに富んだ文章を毎回楽しみにしています。
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