今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

杉原千畝記念館(岐阜県加茂郡八百津町八百津)

2014年11月21日 | 博物館・美術館・記念館
道の駅「可児ッテ」で入手した資料の中に、杉原千畝の名前があった
道の駅から遠くない場所に記念館があるようなので向かうことにした

杉原千畝記念館
「シンドラーのリスト」という感動的な映画を見たあとに、シンドラーよりもっと凄い「杉原千畝」という人物が日本にいたことを初めて知った
記念館などの存在も知らなかったが、道の駅から発信された情報により、杉原千畝について理解する機会に恵まれた



第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情
外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる
その避難民の多くが、ユダヤ系であった

記念館前には駐車場が整備されている



記念館では、千畝が育まれた地域風土を、岐阜産の総檜づくりと新伝統構法によって空間化されている



館内は狭い空間ということもあり、教育関係の団体に館長が説明していたのを側で聞くことができ理解を深めることができた
その後、その団体に加わり研修室でイスラエル人職員から説明を受けることも許されたが、その内容の多くは胸に迫るものがあり感動した



個人で入館した場合には、最初に館内のビデオを視聴することを勧める
基本的な知識を身につけて資料を見ることによって、より理解することができる

私がこの部屋に入ったときに外国からの団体が入館してきた
イスラエルからの観光客だそうだ
机の上に印鑑とスタンプがあったので、ビザ発給のまねごとをしてあげた



2階にも資料が展示してあるが、イスラエルから何故この記念館を訪れるかのよくわかる



ユダヤ人は汽車でシベリア大陸を横断し、ウラジオストックから福井県の敦賀港についた
着の身着のままで逃げてきたためシャツ1枚でふるえているのもいたが、港の人達が熱い飲み物を作ってみんなにふるまった
みんな日本人の思いやりに心から感謝したという
この話を聞いて、自分が日本人でよかったと思った



人道の丘公園
約6,000人のユダヤ人の命を救った人杉原千畝の功績を称え、後世に伝えるための記念公園









シンボルモニュメント



「命のビザ」モニュメント



幾枚もの命のビザを重ね、希望の光を反射させながら空へとのびていくモニュメント
3つのカリオン(愛、心、勇気)を自由に奏でることができる



日本政府の許可なしであったことを私たちが知ったのは、1969年に杉原氏とイスラエルで再会した時である
杉原氏が訓命に背いてまで、ビザを出し続けてくれたなんてことは、再会するまで考えられなかったので、とても驚いたことを覚えている



私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない
しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった

(東日本大震災への義援金を募る際の米国のユダヤ人組織オーソドックス・ユニオンによる公式声明)
東日本大震災が発生し、地震と津波による甚大の被害が世界中に報道されるや
窮状にある人々に手を差し伸べることは、主のいつくしみの業に倣うことである
1940年、杉原領事夫妻は身職を賭して通過ビザを発給し、6,000人のユダヤ人の命を助けて下さった
いまこそわれわれがその恩義に報いるときである

撮影 平成26年10月16日
コメント
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