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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

角館武家屋敷 その1(秋田県仙北市角館町)

2021年09月13日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月9日

角館武家屋敷 その1
象潟の道の駅から100km程走り武家屋敷周辺の桜並木駐車場に着く
受付所で武家屋敷は初めてだと告げると簡単な地図を渡された
公開武家屋敷は有料3軒、無料3軒の6軒

旧松本家住宅主屋(秋田県指定文化財)
松本家は、佐竹家の重臣今宮家の組下で佐竹氏の国替により主家に従って常陸から角館に移った
屋敷は万延元年(1860年)作製による屋敷割絵図に表6間裏15間とある






建物は茅葺の簡素な造りで下屋をおろした入口を入って居間、その右に座敷兼仏間が配されている
裏側は水屋に続いて広縁があり、その奥に寝室が配されている



旧藩時代は、殖産事業の原料となる植物や食用植物が植え込まれていた



松本家を出て周辺を歩いていると方向音痴の本領発揮、迷子ではなく迷爺になってしまった(笑)
近くを歩いていた女性に道を尋ねると、「美人ですね」と思わず発してしまったほどの秋田美人
とても親切丁寧でしかも美人。坩満寺の西施像を思い出した



角館樺細工伝承館
ヤマザクラ類の樹皮を用いて作られる工芸品を樺細工(かばざいく)という



角館の樺細工は、天明年間(1781~1789)にかけて佐竹北家の藤村彦六によって御処野家から伝授されたことから始まった



下級武士の手内職ではあったが、侍らしく妥協を許さない一品入魂の作風で、印籠、眼鏡入、根付、緒締などの製作を手がけた



通りに出る
コロナの影響で観光客の姿がほとんどない



角館歴史村 青柳家(秋田県指定史跡)
400年の歴史を語る武家屋敷
芦名氏の家臣として常陸佐竹氏の国替えにより角館に入った



薬医門
万延元年(年)藩への功績が認められ特別に許された青柳家の薬医門
上級武士にしか許されない重厚で格調高い造りは青柳家の誇りだった






案内図
順路が示されていなければ迷ってしまう3000坪の屋敷



青柳家 母屋(重要文化財)



龍野萬黄(たつのまんおう)画
青柳家に泊まり描いた屏風



この日は非公開だったが、「母屋探訪ツアー」も開催されている



武器蔵
青柳家の貴重な武具や文献が収められている












青柳家が甲府にて武田の武器作りをしていた当時の鎧兜
五輪塔旗印は鎌倉時代のもの
陣羽織や刀も家の誇りとされていた



神明水






解体新書記念館
『解体新書』は日本で初めて翻訳された全5冊の西洋医学書で、安永3年(1774年)江戸で発刊された



翻訳したのは、杉田玄白、前野良沢だが、当時の日本に衝撃を与えたのは、初めて正確な人体解剖図がついていたこと
この人体解剖図を描いた画家が小田野直武という角館の武士だった



若い頃、文庫本で解体新書を購入し解剖図に衝撃を受けたことを思い出した



小田野直武
画家としての才能を見いだしたのは、江戸の才人・奇人といわれた平賀源内だった
蘭学に精通した平賀源内の手ほどきで解体新書の解剖図を描く




その後、日本で最初の西洋技法絵画「秋田蘭画」を創始する












解体新書の画家「小田野直武」












解体新書は5分冊の書籍
この解体新書は小田野直武から、当時の青柳家8代当主 青柳正躬に贈られたもの






小田野直武像



次回に続く

撮影 令和3年6月9日
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角館武家屋敷 その1(秋田県仙北市角館町)

2021年09月13日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月9日

角館武家屋敷 その1
象潟の道の駅から100km程走り武家屋敷周辺の桜並木駐車場に着く
受付所で武家屋敷は初めてだと告げると簡単な地図を渡された
公開武家屋敷は有料3軒、無料3軒の6軒

旧松本家住宅主屋(秋田県指定文化財)
松本家は、佐竹家の重臣今宮家の組下で佐竹氏の国替により主家に従って常陸から角館に移った
屋敷は万延元年(1860年)作製による屋敷割絵図に表6間裏15間とある






建物は茅葺の簡素な造りで下屋をおろした入口を入って居間、その右に座敷兼仏間が配されている
裏側は水屋に続いて広縁があり、その奥に寝室が配されている



旧藩時代は、殖産事業の原料となる植物や食用植物が植え込まれていた



松本家を出て周辺を歩いていると方向音痴の本領発揮、迷子ではなく迷爺になってしまった(笑)
近くを歩いていた女性に道を尋ねると、「美人ですね」と思わず発してしまったほどの秋田美人
とても親切丁寧でしかも美人。坩満寺の西施像を思い出した



角館樺細工伝承館
ヤマザクラ類の樹皮を用いて作られる工芸品を樺細工(かばざいく)という



角館の樺細工は、天明年間(1781~1789)にかけて佐竹北家の藤村彦六によって御処野家から伝授されたことから始まった



下級武士の手内職ではあったが、侍らしく妥協を許さない一品入魂の作風で、印籠、眼鏡入、根付、緒締などの製作を手がけた



通りに出る
コロナの影響で観光客の姿がほとんどない



角館歴史村 青柳家(秋田県指定史跡)
400年の歴史を語る武家屋敷
芦名氏の家臣として常陸佐竹氏の国替えにより角館に入った



薬医門
万延元年(年)藩への功績が認められ特別に許された青柳家の薬医門
上級武士にしか許されない重厚で格調高い造りは青柳家の誇りだった






案内図
順路が示されていなければ迷ってしまう3000坪の屋敷



青柳家 母屋(重要文化財)



龍野萬黄(たつのまんおう)画
青柳家に泊まり描いた屏風



この日は非公開だったが、「母屋探訪ツアー」も開催されている



武器蔵
青柳家の貴重な武具や文献が収められている












青柳家が甲府にて武田の武器作りをしていた当時の鎧兜
五輪塔旗印は鎌倉時代のもの
陣羽織や刀も家の誇りとされていた



神明水






解体新書記念館
『解体新書』は日本で初めて翻訳された全5冊の西洋医学書で、安永3年(1774年)江戸で発刊された



翻訳したのは、杉田玄白、前野良沢だが、当時の日本に衝撃を与えたのは、初めて正確な人体解剖図がついていたこと
この人体解剖図を描いた画家が小田野直武という角館の武士だった



若い頃、文庫本で解体新書を購入し解剖図に衝撃を受けたことを思い出した



小田野直武
画家としての才能を見いだしたのは、江戸の才人・奇人といわれた平賀源内だった
蘭学に精通した平賀源内の手ほどきで解体新書の解剖図を描く




その後、日本で最初の西洋技法絵画「秋田蘭画」を創始する












解体新書の画家「小田野直武」












解体新書は5分冊の書籍
この解体新書は小田野直武から、当時の青柳家8代当主 青柳正躬に贈られたもの






小田野直武像



次回に続く

撮影 令和3年6月9日
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十六羅漢岩(山形県飽海郡遊佐町)

2021年09月10日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月8日

十六羅漢岩
ある目的地を目指し日本海側を北上中「十六羅漢岩」の案内標識があり寄り道をした
以前から気になって場所でもある
地元の男性の話しでは22体の磨崖仏があるそうだ

展望台からの眺望
この周辺に約10体の磨崖仏があるが判別できないので近くに寄ってみる



早速、違った方向に歩き出したようで、地元の男性に指摘され、正しい方向を指で示された
その方向に磨崖仏があるらしいが判別できなかった



1 観音菩薩 (かんのんぼさつ、アヴァローキテーシュヴァラ)



2 注荼半託迦 (ちゅだはんたか、チューダパンタカ)
岩の上に上らなければ観ることができないと聞いていた



穏やかな表情の磨崖仏だ



次の場所に移動する
ここには8体の磨崖仏が確認できた



岩の左側部分(5体)



右側部分(3体) 獅子岩もあると聞いていたが既に忘れていた



3 舎利佛 (しゃりほつ、サーリプッタ)左
4 普賢菩薩 (ふげんぼさつ、サマンタバドラ)右




5 釈迦牟尼仏 (しゃかむにぶつ)上
6 目連 (もくれん、モッガッラーナ)下




7 文殊菩薩 (もんじゅぼさつ、マンジュシュリー)



右側部分(3体)



8 因掲陀 (いんがだ、インガダ )



9 賓度羅跋囉惰闍 (びんどらばらだじゃ、ピンドーラ・バーラドゥヴァージャ)
10 戍博迦 (じゅばか、ジーヴァカ)




歴史を少し
地元の吹浦 海禅寺の21代寛海和尚が、仏教の隆盛と衆生の救済、事故死した漁師の供養と海上安全を願って、1864年から5年の年月をかけ、1868年に完成させた



寛海和尚は、造佛のための費用を工面するため、近隣在郷の協力のみならず酒田方面まで托鉢を行い資金を集めた
資金が1~2両集まるごとに石工に造佛を依頼していたため、磨崖仏は5年の間に順次造られていった
磨崖仏の完成を見た後、明治4年 (1871年)7月に寛海和尚は自身が守り仏になるため、羅漢岩の傍らの海に身を投じ、71年の生涯を閉じた



場所を移動する(3体の磨崖仏)



11 蘇頻陀 (すびんだ、スヴィンダ)






12 伐那婆斯 (ばなばす、ヴァナヴァーシン)






13 諾距羅 (なこら、ナクラ)



更に先に進むが急に足元が悪くなる



岩の上を歩いて進む(先に何があるか分かっていない)



2体の磨崖仏があった(嬉)



14 跋陀羅 (ばだら、バドラ)



15 半託迦 (はんたか、パンタカ)



16 那迦犀那 (なかさいな、ナーガセーナ)
道路下の洞穴に安置されていた



この先まだあると思うが、地元の男性からも危険なので無理をしないようにとの忠告を思い出した
「君子危うきに近寄らず」 教養も徳もないがこの言葉に従い戻ることにした



地元の男性も全部観ていないと聞いた
旅行者としてはこれで十分だと思うが好きなだけに悔いは残る



撮影 令和3年6月8日
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山居倉庫(山形県酒田市山居町)

2021年09月09日 | 名所・旧跡
訪問日 令和3年6月8日

山居(さんきょ)倉庫(国史跡)
数年前に土門拳記念館の写真を撮っていたとき「私と同じレンズですね」と声を掛けられた
その同世代の男性から、いい被写体あると紹介されたのがこの山居倉庫である



この場所に案内された時に、探していた場所だと思った
当時「さんきょ」とは読めず「やまい」でナビ検索をしていた



明治26年(1893年)に建造された米の保管倉庫
現在、12棟からなる倉庫が残り、9棟は現役の米蔵として使用されている



残り1棟は1985年に「庄内米歴史資料館」
2棟が2004年に「酒田市観光物産館 酒田夢の倶楽(くら)」として改装されている



背後を囲む「欅並木」は日よけ・風よけの役目を果たし、自然を利用した低温管理が行われている






三居稲荷神社






歩いてきた道を振り返る



二重屋根



倉庫内を覗いてみる



山居倉庫正面
魅力的な黒色の倉庫と欅並木は実は裏側で、正面はこの様になっている









小鵜飼船






屋根の上の人が落ち葉を拾い集め、ほうきで屋根を掃き清めている



「酒田市観光物産館 酒田夢の倶楽」で大阪の友人からの勧めもあり山形米「つや姫」を購入



NHK朝ドラ「おしん」のロケ地としても知られている



撮影 令和3年6月8日
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旧 閑谷学校 その2(岡山県備前市閑谷)

2021年01月25日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年10月2日

特別史跡 旧閑谷(しずたに)学校 その2

公門(重要文化財)
藩主臨学の際に使用した門で御成門ともいう



左から「飲室」「習芸斎」



飲室(重要文化財)
教師と生徒たちが、湯茶を喫した休憩室
中央の炉のふちには「斯爐中炭火之外不許薪火」と彫り込まれており、火の使用に厳重な注意がはらわれていた



習芸斎(重要文化財)
農民たちも学んだ、教室として使われた施設
毎月三と八の付く日は「五経」と「小学」
朔日(ついたち)には農民も聴講することができる「朱文公学規」の講釈が行われた



女子中学生が修学旅行で訪れていた
遠くから様子を見ていたがTPOをわきまえる行動には感心した






石塀(重要文化財)



かまぼこ型の石塀は、石と石との隙間を無くしているため土が入らず雑草がはえない工夫がされている



女子中学生が講義を受けるため講堂に移動している



資料館で流されていたDVDを視て「なるほど」と思った場所を撮ってみた
最初は「備前焼の瓦」



残念ながら…………画像は残っているが内容を忘れてしまった(笑)









講堂(国宝)
「学問の殿堂」旧閑谷学校を代表する国宝



講堂は入母屋造り、しころ葺きの大屋根と火灯窓が壮重な独特の外観を形作っている



創建当時は「茅葺き」だったが、その後改築され現在の堅牢な「備前焼瓦」に葺き替えられた



講義が始まった。講義を聴いてもいいと許可をいただいたのと写真は後ろ姿だけともいわれた
家庭や学校で良く躾られている女の子たちだと感じていたがその通りだった。知的レベルも高そうだ
講義の内容は「論語」の学而の部分であるが、「如」についてどれだけ理解できただろうか



校門(重要文化財)
この日は10月にもかかわらず真夏日で木陰のベンチで休みたかった



廟の正門として建てられたもので閑谷学校の校門でもある
中国最古の詩集である「詩経」の中の詩に因んで「鶴鳴門」ともよばれる



楷の木(かいのき)
四季を通して情緒豊かな「学問の木」
聖廟前に植えられた二本の楷の木は、中国山東省曲阜の孔林から種子を持ち帰り苗に育てられた内の2本






聖廟(重要文化財)
儒学の祖、孔子の徳を称える最も重要な施設



孔子廟、西御堂とも呼ばれ、最も重要な施設として中央の一番高い所に配されている






奥の「大成殿」には孔子像が安置されている
毎年10月には儒学の祖、孔子の徳を称える「釈菜(せきさい)」の儀式が行われる






聖廟から校門を眺める



聖廟を後にする



閑谷神社
閑谷学校の創始者、池田光政を祀っている






「拝殿」



もとは「東御堂」、または光政の謚をとって「芳烈祠」と呼ばれていた



本殿内には御神体として光政の座像が安置されている









池田家の家紋である「蝶」



受付の男性からの近くにあるお薦めの場所を聞いた
居心地が良く長居をしてしまった。名残惜しいが外に出た



特別史跡 椿山



写真では表現できないが違った世界を歩いているようだった



神々しい雰囲気で、椿山には約400本近いヤブツバキが植えられている



歩いた奥には池田光政の髪・爪・歯などを納めた供養塚「御納所」がある



供養塚から講堂を眺める



石塀の外を歩いてみる
校門(重要文化財)
両脇に花頭窓のある付属屋を付けるなど中国の建築様式を模している






貞享3年(1686年)の造営



公門(重要文化財)
本柱の後ろに控柱二本を建てて切妻屋根をのせる薬医門様式の建物



石塀が築かれた元禄14年(1701年)の時点で設置された



飲室門(重要文化財)






石碑



修学旅行生の昼食風景(密を避けている)



泮池(はんち)の鯉
幅7m、長さ80mを超える長方形の池



男性が鯉の名前を呼ぶと一匹の鯉が側により撫でられるところ(吃驚)



最期に「閑谷学校」同窓含め関係者(私が知っている人のみ掲載)

女優 藤真利子の父とは知らなかった


















撮影 令和2年10月2日
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旧 閑谷学校 その1(岡山県備前市閑谷)

2021年01月24日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年10月2日

特別史跡 旧閑谷(しずたに)学校 その1
歴史など詳細は分かってはいないが、一度訪れてみたいと思っていた
車から気になる案内板が目に入ってきたので止めて確認した

旧閑谷学校 石門
石門は18世紀初めの建築で、主要施設から約1km離れた所にある



現在は1m余りしか見えていないが、江戸時代には約3.3mの高さであった



主要施設にある駐車場についた



「案内板」は文字数が多くその場ではあまり読む気にならない



「手水舎」



この門から入り右手に受付所がある



門の正面奥に見えているのは「閑谷神社」
受付の方のアドバイスで最初に資料館で知識を身につけた方がいいとのこと



講堂と小斎



石塀と石垣の間を通り資料館へ向かう



閑谷学校資料館(登録有形文化財)



「薇山西先生顕彰碑」



閑谷学校校長を20年あまりつとめて岡山県の文教に貢献した



館内の様子



講堂の模型






閑谷学校は、江戸時代前期に岡山藩によって開かれた庶民のための学校
資料によると「世界最古の庶民のための公立学校」

① 岡山藩主 池田光政は重臣 津田永忠の案内で閑谷を訪れ
  この地に庶民教育のための学校を建てるよう命じる



② 津田永忠は学校の建設に努め、元禄14年(1701年)に完成した



③ 講堂では四書(大学・中庸・論語・孟子)の講義が行われた



④ 習芸斎では五経(易経・詩経・書経・春秋・礼記)の講義が行われた



⑤ 習字所では習字や読書の授業が行われた



⑥ 池田光政は延宝元年(1673年)に初めて閑谷学校を視察
  歴代藩主も度々訪れている



⑦ 聖廟には孔子の像が祀られ、釈菜と呼ばれる祭りが行われた



⑧ 池田光政が亡くなると津田永忠は閑谷神社を建て、椿山墓所を造った



⑨ 寄宿舎での生活



⑩ 黄葉亭(茶室)では全国各地から訪れる客人の応接に用いられた



中学校時代に通った校舎の風景に似ていて懐かしい



資料館では民法で放映された番組が流れていて、これがとても参考になる



石塀(重要文化財)
学校全体を取り囲む765mにも及ぶ石塀。独特の景観を生み出している



かまぼこ型の「石塀」は昔から草が生えない工夫がされているという



文庫(重要文化財)



閑谷学校の教科書・参考書をおさめた書庫



漆喰塗で固めた上を瓦葺きにした置屋根式
前室には三重の土の戸を含む六層の戸が設けられている



飲室門(重要文化財)



日通いの生徒や、朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門



小斎(重要文化財)
屋根はこけら葺きで簡素な数寄屋風に作られている



藩主が臨学の際に使用する、御成の間



現存する建造物の中では、最も古い姿を残している



講堂内部(国宝)
修学旅行生の講義が始まるとうことで取り急ぎ講堂内を撮影することになった






光り輝いている床は、屋根に使われている備前焼の瓦プラスある工夫のおかげで、週に一回の清掃で維持できているという



「克明徳」の額
三字額の【克】は、力を尽くして事を成し遂げる
    【明】は、物を正しく見る力
    【徳】は、善や正義をわきまえる高潔な品性と解釈されている



次回に続く

撮影 令和2年10月2日
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長濱蒸溜所<長濱浪漫ビール>(滋賀県長浜市朝日町)

2020年12月15日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月27日

長濱蒸溜所<長濱浪漫ビール>
ある日突然「AMAHAGAN(アマハガン)」という銘柄のウイスキーをYouTubeで知った
2016年11月に稼働した日本最小クラスの蒸溜所で造られている



その蒸留所が、私がよく訪れる琵琶湖周辺にあることを知り、訪れてみることにした
豊公園駐車場(約380台. 3時間以内無料)から200mの所にあるが、方向音痴の私は800m程歩いた



「長濱浪漫ビール」とあるが「長濱蒸留所」の文字はない
少し緊張して店内に入る



店内に入ると正面奥に「長濱蒸留所」の文字が見える
ポットスチルが3基、本当に小さい



「醸造所」では洗浄作業を行っていた



この狭い空間でレストランの店員とウイスキーとビール造りの職人が動き回っている
見学も撮影も自由ですと言われたが迷惑にならないようにするのが難しい



醸造所前に置かれている樽



2階にも機械が置かれている



この蒸留所で造られ販売されているウイスキーが棚に並んでいる
ワールド・ウイスキー・アワード2020に長濱蒸溜所では5つのボトルを出品
【ジャパニーズ ブレンデッドモルト ノンエイジ部門】
AMAHAGAN World Malt Edition No.3 / カテゴリーウィナー
AMAHAGAN World Malt Edition No.2 / 金賞
AMAHAGAN World Malt Edition No.1 / 銅賞
【ジャパニーズ ニューメイク部門】
長濱ニューメイク59度 ピーテッド / 金賞
長濱ニューメイク59度 ノンピート / 銀賞

私も棚の上段に置かれている小さな樽に入っているウイスキーを自分の手で瓶に入れ購入した



レジのショーケースからも一つ選んで購入した



蒸留所の向かいに専用駐車場があり、記念に一枚



駐車場の車に戻ってきた
購入したウイスキーを箱から出す
「AMAHAGAN(アマハガン)」という銘柄
反対から読むと「NAGAHAMA(長濱)」になる



樽から瓶に自分で注入した後に自分の名前を書いてラベルを貼る
世界でただ一つのウイスキーということになる (500ml 59度 6,000円)
開栓すると華やかな香りが車内に漂った(匂いで酔える)



琵琶湖の風景の箱に入っているのは、50mlミニボトル5本組
北海道ではなかなか見かけることが少ないフルボトルだが、私はイトーヨーカドーで購入した



駐車場に戻る途中にある「旧長浜駅舎鉄道資料館」



仮装した賑やかな集団はボランティアで清掃活動をしている



「水陸両用観光バス」が通る。恐怖感はあるが乗ってみたいと思った



駐車場内にある「長浜城」



撮影 令和2年9月27日
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キトラ古墳(奈良県高市郡明日香村)

2020年11月26日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月23日

キトラ古墳
LINE仲間(悪巧みの会)に高松塚古墳にいると知らせると「キトラは…」という返信があった
キトラ古墳はこの日の予定になかったが、今後の(酒を飲むという)付き合いのために行かねばならぬと思った

キトラ古墳壁画体験館 四神の館
キトラ古墳に行くにはこの施設内を通らなければならない



漫画家 里中満智子さんはNHKの歴史番組ではよく顔をみる



初めて訪れる場所で勝手が分からず受付所に行く。親切な女性が対応してくれ明日香村の資料もどうぞと渡された
展示室も無料と聞いて気持ちが動いた。昔から親切な女性と無料と言う言葉には弱い



展示内容について紹介していく

キトラ古墳とは



キトラ古墳の断面



石室
全体



正面



左側面



右側面






獣頭人身十二支像



四神像



石室天文図






「キトラ」という名前の由来



高松塚古墳とキトラ古墳の比較を繰り返し大型テレビジョンで放映している



とても理解しやすい内容でぼんやりした爺の頭にもスッと入ってくる
ただ残念なのは出て行くのも早いということだ



私のLINE仲間の一人は、このキトラ古墳の天文図をモチーフにした絵を描いている



LINEで高松塚古墳にいると知らせると「キトラは…」という返信があった人物である
その絵は最後に紹介する



キトラ古墳 調査・研究の歩み









初めて目で観察したときのイメージ






その後の流れが説明されている


















見学は一方通行となっている
丁寧に説明文を読み、動画をみていくとなると1時間はかかる



さて、掲載した天文図をみて私の仲間はどのような絵を描いたのか……



タイトル「きこえる」 2017年 第103回 光風会展、第92回 北海道展出品
作者 武石 英孝



この作品が好きだったこともあり尋ねると、背景がキトラ古墳天文図だと話してくれた
彼は2020年 日展 第2科 洋画 応募点数1663のなか「history」で特選(10名)を受賞した



絵に興味のある方は下記の絵をクリックしてください
2018年「命の脈動 武石英孝展」その1~6

命の脈動 武石英孝 展  その1(市立小樽美術館:北海道小樽市色内1丁目) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

「命の脈動」武石英孝展1ヶ月前に、「武石氏日展入選のお祝い」と称して、いつもの仲間で酒を飲んだその時、絵の写真を撮ってブログで紹介してほしい...

命の脈動 武石英孝 展  その1(市立小樽美術館:北海道小樽市色内1丁目) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

 


2020年「武石英孝展」

武石英孝展(北海道岩見沢市7条西1丁目7番地) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

武石英孝展岩見沢市絵画ホール・松島正幸記念館2階展示室(岩見沢市7条西1丁目7番地電話0126-23-8700)開催期間/2020年7月24...

武石英孝展(北海道岩見沢市7条西1丁目7番地) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

 


「四神の館」から外に出てキトラ古墳を目指す






円墳の姿が見えてきた



案内板



特別史跡 キトラ古墳



二段築成の円墳である
上段が直径9.4m、高さ2.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さ90cm






「四神の館」で休憩し、お土産を購入し駐車場に戻る



撮影 令和2年9月23日
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高松塚古墳・鬼の雪隠・猿石・酒船石(奈良県高市郡明日香村)

2020年11月25日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月23日

特別史跡 高松塚古墳
学生時代に極彩色の壁画が発見されたことを鮮明に覚えている
世紀の発見と報道されていたため、いつか見てみたいと思っていた



46歳の頃だと思うが三重県に出張になり、空いた時間を利用して訪れたのが最初だ



飛鳥駅に着いたのが閉館30分前
ミッション・イン・ポッシブルのトムクルーズのように走り高松塚古墳を目指した



15分前に現在の壁画館に到着、石棺の中の「女子群像」を見た時には心底感動した(本物と思っていた)
数分後、何か変だと思い係の人に尋ねると古墳は外にあると教えてくれた



こんもりと盛り上がった所が古墳で、その時はブルーシートで全体が覆われていた
その後は退職した年に訪れ、今回が3回目になる



今は遊歩道もでき、近くから見ることができるようになった



この場に立つと、初めて訪れた時のことを思い出す



ここも最初は無料だった記憶がある



有料施設としては展示物が少なすぎる感は否めないし、撮影禁止も理解できない




鬼の雪隠
国営飛鳥歴史公園館で展示物を見た後に休憩、外に出ると「鬼の雪隠」の案内があった
「石舞台古墳」に感動したことがあるので行ってみようと思った



普段歩くという習慣がないので、少しの距離でも随分歩いた気がする



言い伝えによると、風の森と呼ばれるこの地方に鬼が棲んでおり、通行人を騙してとらえ食べたと云われている
「俎」で調理し、「雪隠」で用を足したという



昔は穴を掘り、その両脇に板を置き便所として使っていたことを思い出した



近くに「鬼の俎」があるようだが、行って見たいという気持ちがなくなった



周辺の田園風景



駐車場に戻る途中「猿石」の案内があった
地元の人に尋ねるとすぐ近くにあるという

吉備姫王の墓(猿石)
地元の人の話によると「吉備姫王(きびひめのみこと)の墓」の近くにあると
周辺を探しても見つけることができない
諦めて「吉備姫王の墓」でも見るかと案内板を読むと、そこに答えがあった



案内板は墓の裏側にある。横道を通って歩いて行く



桜井皇子(欽明天皇の皇子)の王女
茅渟王の妃となり、宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)・軽王(孝徳天皇)を儲けた



墓域内に猿石があるというので探す



すぐに猿石が見つかった
こんな所に捕らえられていた(笑)



柵の隙間からレンズを突っ込み撮る



調べてみると、猿ではなく渡来人を象った人面石像であるといわれている(右側2体)



確かに人間にも見える(左側2体)










欽明天皇陵
吉備姫王の墓の向かいに29代天皇となる「欽明天皇陵」がある



百済の聖明王から仏像、仏典を献じられ、信ずべきか否かを群臣にたずね
蘇我氏(受け入れ)と物部氏(反対)と対立(古代の宗教戦争)した時代の天皇である










史跡 酒船石(さかふねいし)






江戸時代から多くの仮説が唱えられている
酒を造る設備、薬などを造るための設備、庭園の施設とも諸説あるが定かではない






撮影 令和2年9月23日
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旧和歌山県会議事堂(和歌山県岩出市根来)

2020年11月17日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月21日

旧和歌山県会議事堂(重要文化財)
和歌山城の東側に明治31年(1898)に建設された和歌山県会(現県議会)の議事堂
道の駅「ねごろ歴史の丘」の近くに移築復元された



現存する唯一の和風意匠の府県会議事堂で、平成29年に国の重要文化財に指定された



車寄せ
正面車寄せには華麗な彫刻が施され県会議事堂の正面玄関を引き締めている



写真上 兎の毛通し「鳳凰」 中央 笈形「波」 下 蟇股「雲」
これら彫刻群は棟札にある彫工「大窪嘉輔」の手になるものとみられる



議場
間口18m 奥行23m 高さ6m 正面奥に唐破風付き「床の間」






唐破風付き「床の間」



上部には唐破風が設けられ、鬼板をはじめ、鶴や亀をあしらった彫刻で飾る
写真上 「鬼板」 中央 笈形「亀」 下 蟇股「鶴」



中央 笈形「亀」 下 蟇股「鶴」を拡大



「議場の天井」
中央部を折上格天井、周囲を鏡天井とした構成



折上格天井の天井板は、杉の杢目板



一つの格間を一枚張りとした贅沢な木取り
前後左右で木目の向きを変え、市松模様になっている



議場の模型から当時の議会の様子が分かる



「書記室」



「議長室」



夏目漱石の和歌山講演
明治44年(1911年)に和歌山を訪れ、県会議事堂で有名な講演「現代日本の開化」を行った



和歌山を講演先にした理由や宿泊先の変更、和歌浦への触れ方などは、小説『行人』で描かれている



「濱口梧陵翁之像」
和歌山県会は明治12年(1879年)5月5日、第1回通常会を開会した
初代議長は濱口儀兵衛(梧陵)であった



「議員休憩室」






道の駅「ねごろ歴史の丘」周辺散策マップを参考に立ち寄った



撮影 令和2年9月21日
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千畳敷 (和歌山県西牟婁郡白浜町)

2020年11月11日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月19日

名勝 千畳敷
「三段壁」から数分の場所にある
土曜日ということもあり、家族連れやカップルなどの姿も多い



南紀白浜の「千畳敷」は、その名の通り岩の畳を千枚敷いたような大きな岩盤を指す
新第三紀層の砂岩からなる、太平洋に面したスロープ状の岩盤である



空を見上げると近くの飛行場から旅客機が飛び去っていく



足元を見ると変わった形の岩がある
砂岩は非常に柔らかいため、打ち寄せる波の浸食を受け、複雑な地形を形成している



砂岩は柔らかく、硬貨などで簡単に削れるため落書き被害が多いようだ
「都市公園の損壊行為は10万円以下の罰金」との注意を促す看板があった



観光客の多くは波打ち際に向かって歩いて行ったり、高い岩の上を上ったりしている



釣り人の姿も
大物が潜んでいるような感じがする



白波が千畳敷にぶつかって、水しぶきを上げる様子も美しい



海が荒れている時や波浪注意報・警報が発令されている時などは千畳敷の上を散策することは出来ない



一番大きな岩盤を背景に多くの観光客が記念写真を撮っている






洋菓子の「ミルフィーユ」を連想させる



駐車場に戻るのにも好きな岩を選んで歩く楽しみもある



駐車場からの眺望



「景勝地もいいな」と思っていたが、今回の旅ではこの先訪れることはなかった



撮影 令和2年9月19日
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三段壁(和歌山県西牟婁郡白浜町三段)

2020年11月10日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月19日

名勝 三段壁(さんだんべき)
魚の群れ(鯨との説もある)を見つけるための監視場(見段・みだん)が転じて三段壁と呼ばれる様になった
長さ2km、高さ50m - 60mに及ぶ柱状節理の大岩壁で、断崖絶壁の名勝として知られている



1950年 許されぬ結婚と病苦から岩に「白浜の海は、今日も荒れてゐる」と口紅で書き遺し、若い男女が青い海に身を投じた
「口紅の碑」は二人の思いが成就するようにと、友人が翌年同日に岩に刻みこんだといわれている



2016年4月には、プロポーズにふさわしいロマンチックな場所として「恋人の聖地」に認定されている






平安時代、源平合戦で知られる熊野水軍が船を隠したという伝説が残る洞窟の入口
「観る価値はある?」と尋ねると返答に困った様子。受付に行くと入場料が何と1,300円と高い
受付が女性でなかったらやめていた(笑)



洞窟は地底36m エレベーターで下りる(24秒)
写真入りで洞窟内について簡単に説明してある



エレベーターの扉が開くと目の前に熊野水軍の模型がある



予備知識もなく、由来について熟読



「案内図」
200mに及ぶ洞窟の通路内には、史料に基づいて再現された番所小屋や弁財天、瀬戸鉛山鉱山採掘場跡があり、波の打ち寄せる洞穴が鑑賞できる



写真では音を感じることはできないが、激しい波の音が洞窟内に響き渡っている



「漣痕(リップル)」



約1,600万年前に波や潮流によって海底の砂や泥が動かされ、地層の表面に作られたものを漣痕(リップル)という



漣痕が次々と積み重なり地層の中に保存された天井岩盤は一見の価値がある






先に進む



地底36mから唯一外の景色が撮れる場所である






「十像岩」









先に進む



宗教的な雰囲気を感じる



秘湯「湧泉洞」 湧出しているのは温泉



「牟婁大辯才天(むろだいべんざいてん)」



大黒天、毘沙門天に十六童子を従えどのような願いも叶えるといわれている






牟婁大辯才天は、水の神「神社仏閣の守護神」ともいわれている



先に進む



「瀬戸鉛山(せとかなやま)鉱山跡」



「熊野水軍軍船図」






熊野水軍は源氏と平家の時代、紀伊半島南東部、熊野灘、枯木灘に面した地域を拠点とした水軍
熊野海賊ともいわれている
瀬戸内海の制海権を握り、平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱(源平合戦)で活躍した事で知られている



「熊野水軍番所小屋」
三段壁洞窟は勇猛果敢をうたわれた熊野水軍の舟隠し場






舟隠し場の出入口






「潮吹き岩の由来」



波の音と潮吹きの瞬間は動画の方がいいと思ったがスマホを車に置き忘れた



右目で波を待ち、潮吹きの瞬間を待つ
失敗を繰り返しながら瞬間を撮る。楽しい時間であった



エレベーターで上がり周辺を散策する
朝から天気が良く気持ちがいい



「南壁先端の柱状節理」



「北壁」



撮影 令和2年9月19日
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潮岬灯台・トルコ軍艦遭難慰霊碑他(和歌山県)

2020年11月09日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月18日

潮岬灯台(和歌山県東牟婁郡串本町潮岬)
数カ所の灯台巡りをしているが、駐車料金と入場料(参観寄付金)を請求されたのは初めてである



明治6年の初点灯以来、100余年もの間、海上交通の要所として沖行く船を照らし続ける30mの断崖に建つ白亜の灯台



幕末の慶応2年(1866年)米・英・仏・蘭の4か国と結んだ「改税条約(江戸条約)」によって建設することを約束した8か所の灯台の1つ
他の7カ所は観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、剱埼、伊王島、佐多岬



この灯台は高さ20mの灯塔まで68段の石造りのらせん階段等を利用して上ることができる



最後は狭くて急な梯子を上る



灯塔からは、眼下には太平洋の大海原が広がる



本州最南端の風景である



「痩せなければダメだな」と思うほど下りの階段は狭い



「資料展示室」



「鳥瞰図」を見て「串本と大島」の関係が分かった



「2代目潮岬灯台レンズ (第2等フレネル不動レンズ) 」



光源はハロゲン電球を使用し、光達距離は19海里(約35km)となっている



日本の灯台50選に選ばれ、2018年には「恋する灯台」の認定を受けている



潮御崎神社
社号標「潮御崎神社(しおのみさきじんじゃ)」



「鳥居」



「拝殿」



主祭神:少彦名命(スクナヒコナノミコト)
景行天皇28年(98年)御崎の「静之窟」内に少彦名命を勧請したのが潮御崎神社の創始となる



寛永14(1637)年の古文書によると
18ヵ浦の鰹漁の船主・船頭が潮御崎神社に集り、神官の立会で「鰹漁に関する約束ごと」を戦前まで行なわれた



「鎮守社(高皇産霊尊)社殿」



「境内社(神名不明、大己貴命、天照大神)」



灯台横まで戻る



有料駐車場



くしもと大橋
串本本土と大島をつなぐ架橋で平成11年9月8日に開通した



大島側の橋の傍にある「ポケットパーク」に駐車し橋を眺める



290mのアーチ橋(写真)と苗我島に架かる386mのループ橋からなる



以前は大島港と串本港を巡航船が行き来していたが、橋の完成とともに巡航船は廃止された



トルコ軍艦遭難慰霊碑(和歌山県東牟婁郡串本町樫野)
明治23年(1890年)9月16日、大島樫野崎の沖合でトルコ軍艦エルトゥールル号が嵐の中遭難
乗組員656名のうち587名が還らぬ人となった
異国の海に散った将士たちの霊を慰めるために建設された



19世紀末、ヨーロッパ列強との不平等条約に苦しんでいたオスマン・トルコ帝国は、明治維新後同様の立場にあった日本に親善使節団の派遣を計画した
親善使節団の特使には、エミン・オスマン海軍少将が任命され、使節団座乗艦としてフリゲート艦エルトゥールル号が選ばれた



明治22年7月14日、エルトゥールル号は、スエズ運河を抜け、途中各地のイスラム教国に教主国として寄港、明治23年6月7日に横浜港に到着した
明治天皇に謁見し、両国の修好という皇帝の意を天皇に伝え、明治天皇は、使節に勲章を授けた



明治23年9月15日、横浜港を出港、帰国の途についた
翌日、エルトゥールル号は串本町大島樫野崎沖を航海していたが、同海域において台風に遭遇、猛烈な波浪と強風のために航行の自由を失う
次第に樫野崎に寄せられ、古より船乗りたちに恐れたれてた船甲羅岩礁に激突
船体破損部から流入した海水が機関の爆発を引き起こし、オスマン海軍少将以下587名が殉職、生存者わずかに69名という大海難事故になった



この遭難に際し、当時の大島島民は不眠不休で生存者の救助、介護、また殉難者の遺体捜索、引き上げにあたった
日本全国からも多くの義金、物資が遭難将士のために寄せられた
69名の生存者は神戸で治療を受けた後、同年10月5日、日本海軍の軍艦により帰国の途につき、トルコ国民の心からの感謝に迎えられた



「私たちはエルトゥールル号の借りを返しただけです」
イラン・イラク戦争が続いていた1985年3月17日、イラクのフセイン大統領が「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」という声明を発表
イランに住んでいた日本人は、慌てて首都テヘランの空港に向かい出国を試みたが、どの飛行機も満席で搭乗することができなかった
世界各国は自国民を救出するために救援機を出したが、日本からの救援機の派遣は、航行の安全が確保できないとの理由から見送られた
そんな時、救いの手を差し伸べてくれたのがトルコ共和国から駆けつけた救援機2機。日本人215名全員がイランを脱出することに成功した
タイムリミットのわずか1時間前のことだったという



日本・トルコ合作映画「海難1890」は安倍首相とエルドアン大統領の後押しがあり、国家級のプロジェクト規模に膨らんだ

トルコ記念館
トルコ国との友好の証としてトルコ軍艦遭難慰霊碑の近くに建設された



遭難したエルトゥールル号の模型や遺品、写真などが展示されており、遭難事故当時の様子を知ることができる



樫野崎灯台(和歌山県東牟婁郡串本町樫野)
大島の東端にある樫野の断崖に立つ日本最古の石造り灯台






現在は自動点灯の無人灯台(高さ10.20m)



光度53万カンデラ、光達距離18.5海里(約35km)



らせん階段を上がる。灯塔からの眺望



エルトゥールル号の遭難とその後のトルコとの友好関係について興味を持っていたので、この場に立つことができて良かった



撮影 令和2年9月18日
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橋杭岩(和歌山県東牟婁郡串本町)

2020年11月07日 | 名所・旧跡
訪問日 令和2年9月18日

名勝 天然記念物 橋杭岩(はしぐいいわ)
国道42号を走り赤信号で止まっていると、左手に変わった形の岩が見えた
観光で訪れる場所の幅を広げようと考えていたので、立ち寄ることにした



この道路を通行するのは4回目になる。運転席から見える景色で気になっていた場所があったが……
それがここだったとは思わなかった(この日は干潮だったためか)



幼い頃から海の近くで生活してきたので潮の香りや波の音は心地よい
就職した場所もオホーツク海、太平洋、日本海と海の近くばかりだった



本州最南端の道の駅「くしもと橋杭岩」
道の駅とは知らずに車を駐めていた
利用した道の駅では買い物をするように心がけている



「案内板」
橋杭岩の成り立ちについて科学的に説明されている



「橋杭の立岩伝説」
伝説には夢があり面白い

昔弘法大師が天の邪鬼と串本から沖合いの島まで橋をかけることが出来るか否かの賭けを行った



弘法大師が橋の杭をほとんど作り終えたところで天の邪鬼はこのままでは賭けに負けてしまうと思い
ニワトリの鳴きまねをして弘法大師にもう朝が来たと勘違いさせた
弘法大師は諦めて作りかけでその場を去った
そのため橋の杭のみが残ったという



「橋杭岩」
吉野熊野国立公園に属している
串本から大島に向かい、海中に約850mの列を成して大小40余りの岩柱がそそり立っている
その規則的な並び方が橋の杭に似ていることからこの名が付いた



1500万年前の火成活動により、泥岩層の間に流紋岩が貫入
貫入後、差別侵食により、柔らかい泥岩部が速く侵食され、硬い石英斑岩が杭状に残されたものである



橋杭岩に転がっている岩の中には、岩のそそり立つところからかなり遠くにまで転がっているものがある



これらの岩は宝永地震で起こった大きな津波によってそこまで転がったのではないかという調査結果が出ている



小学生の遠足か宿泊学習か分からないが、子供達が歩き回っている



やはり男子児童は元気が良く、いつの間にか遠くある岩の上にに立っている



私はといえば、ひょいひょい岩を跳び回ることができず……



とぼとぼ岸辺を歩き写真を撮っていた



気温も上昇し空が明るくなってきた。雨の心配もなさそうだ



駐車場脇に咲く赤い花



「くしもと大橋」
平成11年9月に開通した、串本本土と大島をつなぐ架橋



撮影 令和2年9月18日
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白河関跡(福島県白河市旗宿白河内)

2020年03月23日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年11月7日

史跡 白河関跡
「白河の関」の名は時々耳にすることがあり、ずっと興味を持っていたが訪れたのは初めてである
ナビによると「らしき場所」に到着したはずなのだが想像していたものとは随分違っていた
「白河関の森公園」の駐車場に車を駐め彷徨ってこの場所に着いた



白河の関は、鼠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに、奥州三関の一つに数えられる関所
都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として名高い



設置時期も明らかではなく、関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた






古関蹟(こかんせき)の碑
白河藩主松平定信が寛政12年(1800年)8月、「ここが白河関跡である」であることを断定し、建立した碑



松平定信は文献による考証を行い、その結果、「白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡である」と論じた



白河神社

狛犬






手水舎



鳥居前参道にある。凄いとしかいいようのない木。芸術的だ



鳥居



拝殿
135年、白河国造命と天大玉命を奉納し勅命により鎮座






社殿は仙台藩主伊達政宗が奉納したものと伝えられている






古歌碑



「白河関」に題材をとる平安時代の著名な和歌三首を歌碑とした






西山(せいざん)国師遺跡霊場
浄土宗西山三派の祖で、法然の高弟である証空(西山国師あるいは西山上人ともいう)ゆかりの寺社を巡る霊場巡拝である



中世の遺構
中世には、丘陵全体が居館として使用され、敵の侵入を防ぐために造られた土塁や空堀で囲まれた範囲に主郭が存在した

「土塁跡」敵の攻撃や侵入を防ぐため、曲輪の縁に土を盛って築いた堤上の防御施設



「空堀跡」敵の侵入を防ぐため、曲輪に沿って掘られた防御施設



関跡を散策する



従二位の杉
鎌倉初期の歌人で「新古今和歌集」の撰者の一人である藤原家隆が手植えし奉納したと伝えられている



樹齢約800年と推定される巨木



旗立の桜
治承4年(1180年)源義経が平家追討のため平泉を発し、この神社に戦勝祈願をするため旗揃えをした際に、この桜に源氏の旗を立てたと伝えられている



ただの桜の木だが、源義経にまつわる伝説が残される木だと知ると価値が変わって見える









芭蕉と曽良









白河関の森公園









撮影 令和元年11月7日
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