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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

日光東照宮・日光田母沢御用邸(栃木県日光市)

2020年03月09日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年11月3日
昨夜は2年毎に開催している学生時代の同期会をプレ五輪と称して東京で開催
2日目は道路の渋滞が予想されるため電車で日光に移動した

日光東照宮
この選択は大正解で車なら身動きがとれなくなっていた
東武日光駅から循環バスを利用し東照宮へ向かう予定だったが、渋滞のため徒歩の方が早いと判断し昔話をしながら歩く

疲労しかけたことに目的地に到着したが、この観光客の賑わいぶりには正直驚いた



この重要文化財の五重塔を撮るために前年に訪れたが、この日はこの一枚だけ



「三猿」の建物付近もこのような状態



少しズルをしながら三猿に近づく



陽明門前の入口側通路は特に混雑していて、階段付近は注意が必要なほどだ



反対側からも



立ち止まって、ゆっくり写真を撮るなどとてもできない状態だった






流れに逆らって堂々と歩いているのが私の仲間の二人だ。



自分の意思ではなく、人の流れにのみ込まれて歩いている状態だったので、すぐ戻ることにした
拝観券売り場には長蛇の列。日光東照宮単独拝観券1,300円×○○万人=…… と計算してしまう



昼食後、旅館へ向かって歩いている途中に「金谷ホテル歴史館」があった



日本初の西洋式リゾートホテル「金谷ホテル」
その歴史を今日も形として残している「金谷侍屋敷」
日本人特有の外国人へのおもてなしの原点がここにあるという



日光田母沢御用邸記念公園
数分歩くと、大きな門が見えてきた。栃木県立の都市公園(歴史公園)である。ここに寄るらしい



元は皇太子時代の大正天皇の静養所として造営された旧御用邸の建物と庭園を公園として整備し一般公開している



病弱であった皇太子の避暑地向けの静養先



明治期以降に数多く造られた御用邸建築のうち、全体がほぼ完存する唯一の例として貴重であり、建造物群は国の重要文化財に指定されている






表御食堂(重要文化財)
赤坂離宮から移築。明治時代の建物



床は檜の柾目寄木張りで90年経った現在でも狂いのない「匠の技」がいきている



御玉突所(ビリヤード室)



障子紙の貼り方も皇室では違うと説明を受けた



謁見所(重要文化財)
大正時代増築部






このような便器も初めて見た












劔璽(けんじ)の間
皇位継承の象徴である天叢雲剣の複製と、八尺瓊勾玉の安置するための3畳の小部屋である
劔璽は、天皇の1泊以上の行幸にはともにする習わしである。剣と勾玉の安置所には繧繝縁(うんげんべり)の畳が置かれている



御寝室
天皇の寝室。旧紀州徳川家中屋敷部分の2階にある。御座所、御学問所と異なり、畳敷きである
また、この部屋のみ電灯を用いず燭台を置く






御座所(重要文化財)
大正天皇の執務室・居間。赤坂離宮から移築した旧紀州徳川家中屋敷部分の1階にある
床(とこ)・棚を設けた和室だが、床(ゆか)にはじゅうたんを敷き、天井からはシャンデリアを吊るした和洋折衷形式になる
この部屋と御学問所、謁見所のじゅうたんは20色のアキスミンスター織である






撮影 令和元年11月3日
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旧海軍兵学校跡地(広島県江田島市江田島町国有無番地)

2020年02月22日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年6月12日
「令和元年春の旅」もこの日が最終日。「江田島の海軍兵学校」は、一度訪れてみたかった場所だった
道の駅「スパ羅漢」を早めに出発し、何とか1回目の見学時間に間に合った

旧海軍兵学校跡地(海上自衛隊第1術科学校)
「校内見学」に来たことを告げ駐車場に車を駐める
受付を終えると待機場所を移動するように指示される



江田島クラブ
前方に見える建物が見学者の待合所になる。売店や食事処もある



護衛艦「びえい」の主錨






大講堂
昭和35年から広報の一環として校内見学を実施しており、年間約7万人が来訪する
海軍兵学校は、1876年(明治9年)から1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終戦まで存続



大日本帝国海軍の将校たる士官の養成を目的とした教育機関である
英国の「王立海軍兵学校」、米国の「合衆国海軍兵学校」とともに、世界三大士官学校の一つにも数えられ、総計1万2433名の卒業生を出している



海上自衛隊の教育機関のため、案内人の指示に従うことが見学の原則
自由見学や自由行動はできず、場所は指定された場所のみ



山の名前は忘れたが、山頂まで登り走って帰ってくる訓練もあるようだ






大講堂内入る。平日にもかかわらず10代の若者の姿が目につく



入学式や卒業式が行われる場所



成績優秀者のみが帯刀を許され、中央の赤い絨毯の上を歩き卒業証書を授与できるという名誉を与えられた



来賓席



天井の照明



「操舵手」が操作する輪状の操作部を模したデザインのようだ






大講堂の横に煉瓦の建物がある



海上自衛隊「幹部候補生学校」
兵学校においては、常に同期生間の席次を意識させ、席次を競わせる方針が徹底しており、自習室の机の順番・寝室のベッドの順番に至るまで、全てが席次の順であった
この席次を「ハンモックナンバー」と呼んだ。海軍兵科将校は、兵学校卒業席次を基礎とする同期生間の先任順位(ハンモックナンバー)の順に進級した



明治26年に完成した当時の生徒館、現在は幹部候補生学校庁舎として使用されている
英国人の設計でレンガもイギリス製。一個一個、油紙に包まれて輸入されたという



横に長い建物で144.8m。当時の駆逐艦と同じ長さで、陸上にいる間から船での生活に慣れるためにこの長さにしたと言われている
説明によると、「防衛大学卒業者」のみが約1年間、この施設で基礎知識を習得している



約140mの長い廊下






日の丸の国旗が風になびく



学生館



一般大学卒業者、自衛隊勤務部内選抜組み等が学ぶ場所になる



戦艦「陸奥」砲塔



戦艦陸奥に搭載されていた実際の砲塔。隣にあるのが砲術講堂と呼ばれる当時の講堂室



軍艦「大和」主砲砲弾



特殊潜航艇
昭和16年、ハワイ真珠湾太平洋艦隊の攻撃に参加した5隻のうちの1隻






昭和35年米国により引き揚げられ、翌年、日本に持ち帰られた



奥にももう1隻あったが立ち入り禁止のため詳細は不明



日英同盟百周年記念植樹



教育参考館
これまで旅を始めて広島・長崎・沖縄の戦争に関する資料館、鹿児島県知覧の特攻記念館や靖国神社遊就館の遺書に感動したことをブログに書くと……
読者の方から「江田島」が残っていると言われた。そのことがずっと頭にあり、今回ここを訪れることになった
教育参考館に貯蔵されている約4万点の資料から、終戦時に貴重な資料を約1万点を選出し、広島県の厳島神社と愛媛県の大山祇神社に奉納(後に戻された)



教育参考館には16000点近くの資料を保存しており、その中から約1000点を選んで展示している
海軍兵学校の職員と学生が先人の偉業を偲び、過去を振り返ることで自己鍛錬と学術を深める目的で作られた場所である
見学時間は30分程度、目的だった「海軍特別攻撃隊の遺書」は最後の方に展示されていて、時間不足で悔いが残った



多くの戦艦が停泊していた呉は大空襲の被害に遭い絶大な被害を受けたが、この海軍兵学校に関しては空襲禁止区域になっていたという
歴史が浅い日本海軍が世界最強と謳われたバルチック艦隊を日露戦争で破ったのは不思議な出来事で、軍艦の質より、軍人の質が注目され、この海軍兵学校の存在が気になったらしい



海軍兵学校の教えとして有名な「五省(ごせい)」は松下元校長が考案したもので、兵学校の精神を代表するものとして名高い
一、至誠悖もとる勿かりしか<真心に反する点はなかったか>
一、言行に恥はづる勿かりしか<言動に恥ずかしい点はなかったか>
一、氣力に缺くる勿かりしか<精神力は十分であったか>
一、努力に憾み勿かりしか<十分に努力したか>
一、不精に亘わたる勿かりしか<最後まで十分に取り組んだか>



全体の見学時間は90分に設定されているが、あっという間でリピーターが多いというのも頷ける



食事処で「海軍カレー」を注文し呉市に向かう



撮影 令和元年6月12日
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錦帯橋(山口県岩国市)

2020年02月19日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年6月11日
昨夜は、大阪府警富田林署に勾留されていた容疑者が逃走し、餅や菓子パン、総菜などを万引したとして、現行犯逮捕された周南市の道の駅「ソレーネ周南」で車中泊
コンビニも併設されている便利な道の駅で私も今回で三度目の利用になる
この日の朝に計画していた場所に向かって走っていたのだが急遽変更して錦帯橋へ

錦帯橋(きんたいきょう)
岩国市の錦川に架橋された木造のアーチ橋で、日本三名橋や日本三大奇橋に数えられている



5連のアーチからなるこの橋の全長は193.3m、幅員は5.0m



主要構造部は継手や仕口といった組木の技術によって、釘は1本も使わずに造られているというから驚く



目の前を美しい女性が歩いていく



橋の上では自撮りをしている女性



錦帯橋は1673年(延宝元年)に、岩国藩主吉川広嘉によって杭州(中国)西湖にある連なった橋からヒントを得て建造された
しかし、翌年の延宝2年(1674年)、洪水によって石の橋脚が壊れ、木橋も落ちてしまった



昭和25年(1950年)の台風で全て流失したため、現在の橋は昭和28年に建造当時のまま復元されたもの



釣りを楽しんでいる人もいる



錦帯橋入橋券(往復のみ)を購入し、歩いてみる



川岸が無料駐車場になっている。愛車のハイエースが小さく見える



山の上には、吉川広家築城の山城「岩国城」が見える
完成からわずか7年後の元和元年(1615年)に幕府の一国一城令により廃城となった



「槍倒(こか)し松」






巌流ゆかりの柳



原作も学生時代夢中になって読んだが、「三船敏郎・八千草薫・鶴田浩二」出演の宮本武蔵は最高だった



対岸からの眺め



ソメイヨシノ開花標準樹
桜の名所として、吉香公園と共に日本さくら名所100選に選定されている



この日は大変暑く、散歩の犬も涼を求めて行水



私も木陰から



吉川広嘉公像



岩国第三代藩主。延宝元年(1673年)、同2年(1674年)と連年錦川に架橋工事を行い、現在の形の錦帯橋を架橋した
特に延宝2年の架橋工事は緻密を極め、橋は以後第二次世界大戦後にキジヤ台風で崩壊・流失するまで一度も流失しなかった



香川家長屋門(山口県指定有形文化財)









書状集箱
現役の郵便ポストとして使用されている






観光客が多くて、なかなか撮れなかったアングル






撮影 令和元年6月11日
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史跡 安国寺集落遺跡公園「弥生のムラ」(大分県国東市国東町安国寺)

2020年02月11日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年6月9日
道の駅「ゆふいん」 この日は温泉地で有名な「由布院」の近くにある道の駅から出発



湯けむりが立つ別府市を経由して、国東半島を目指す一般道を走る



道路の両サイドには緑一色に染まった山があり、その中を快適に走る



あまりの景色の美しさに車を止めカメラを取り出した程だ



史跡 安国寺集落遺跡公園(弥生のムラ)
始めに園内にある有料施設である「資料館」に入る
館内の展示物の全てが撮影禁止ということを事前に伝えられた

屋外は無料となる。復元とはいえ昔の建物が好きなので楽しみだ



美しく広がる敷地の中に「竪穴住居」が見える



平成5年の発掘調査で発見され復元されたと書いている



国東の自然・弥生時代からの歴史・生活・文化を体感できる公園になっている



床面の形が方形と円形のものが復元されている



竪穴住居は床を少し掘り下げ床をつくり、数本の柱を柱穴に立てカヤで屋根を覆った住居
キャンプ用テントの原形だといつも思うのは私だけか……



弥生時代から古墳時代初期にかけての貝塚・集落遺跡で「国の史跡」の指定を受けている



青空がとても綺麗だ
鍬、田下駄等の木製農具や建築部材、柱穴等の遺構、植物の種子等が多数出土したことから、「西の登呂」とも呼ばれた



二重口縁壺に特殊な櫛目模様を付けた土器がみつかり、遺跡名をにちなんで「安国寺式土器」と命名されている



生活は漁撈・狩猟・採集を主体としながら小規模な稲作を行い、国東半島という地理から瀬戸内海から中国・四国地方と海洋交易をしていたと考えられている






復元した建物を見ても昔の人の高い技術力には驚く









撮影 令和元年6月9日
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高瀬石仏(大分県大分市大字高瀬)

2020年02月09日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年6月8日

史跡 高瀬石仏
平安時代中期から後期の磨崖仏で、国の史跡に指定されている



案内文は陶器のパネルに。数少ない石窟形式の磨崖仏と記されている



石窟(高さ1.8m、幅4.4m、奥行1.5m)の中に5体の石仏が刻まれている












深沙大将立像(じんじゃだいしょう)
頭髪は赤く彩色された炎髪を逆立て額と胸に髑髏の瓔珞(ようらく)をつけ腹にも童女の顔を描く



左手に蛇を持つ非常に少なく珍しい仏像



玄奘三蔵がインドへ旅した際、砂漠で玄奘を守護したと伝えられることで有名



大威徳明王座像(だいいとくみょうおう)
6つの顔、6本の手、6本の足をつけ牛に跨がる勇ましい姿をしている



怨敵の降伏と衆生を害する怨敵一切の賊を残らず滅ぼしてしまうということで「戦勝祈願」の仏様として信仰が厚かった



日本では、大威徳明王は六面六臂六脚で、神の使いである水牛にまたがっている姿で表現されるのが一般的



胎蔵界大日如来坐像
胎蔵は総ての物を包み蔵すという意



霊山山麓の伽藍迫(がらんさこ)の凝固岩の洞窟の中心



大日如来には知的な面を示す胎蔵界と理的面を示す金剛界があり、大分県での胎蔵界は珍しいという



如意輪観音坐像
如意とは如意宝珠、輪とは法輪の略。全ての願いを叶えてくれるという仏様



如意輪観音像は、坐像または半跏像で、片膝を立てて座る六臂の像が多い。



馬頭観音
頭上に馬頭を戴き、胸前では馬の口を模した「根本馬口印」という印相を示す






洞窟内に彫られているため、保存状態が良く彩色もよく残っている









石窟の石仏以外の部分は荒々しく削られている






撮影 令和元年6月8日
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臼杵磨崖仏 その3(大分県臼杵市深田)

2020年02月05日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年6月8日

臼杵磨崖仏(国宝・特別史跡)
磨崖仏は4か所に分かれて所在し、それぞれ古園石仏群、山王山石仏群、ホキ石仏第一群、ホキ石仏第二群と称される

古園石仏群
地元に伝わる「真名野長者伝説(炭焼き小五郎伝説)」では、磨崖仏は亡くなった娘の菩提を弔うために長者が彫らせたとされている
磨崖仏は山岳仏教の衰退と共に忘れ去られ、1000年の風雨に曝され続けることとなった
劣悪な環境の中で仏頭の多くが剥落した
中でも、最も有名な古園石仏群の大日如来像の仏頭は、1993年(平成5年)に保存修復が完了するまでの間、仏体下の台座に置かれたままであった



古園石仏群は全13躯で、金剛界大日如来坐像を中心に、その左右にそれぞれ如来像2躯、菩薩像2躯、明王像1躯、天部像1躯を配する









「多聞天立像」



右側の石仏



「伝降三世明王坐像」



「観音菩薩坐像」



「伝普賢菩薩坐像」



「伝不空成就如来坐像」



「伝無量寿如来坐像」



大日如来坐像



左側の石仏



「伝阿しゅく如来」



「伝宝生如来坐像」



「伝文殊菩薩坐像」



「勢至菩薩坐像」



「不動明王坐像」



「伝増長天立像」



望遠レンズに替えアップで






古園石仏群に置かれていた昔の写真
大日如来像の仏頭が、仏体下の台座に置かれたままになっている



仏頭修復にあたっては、元の姿に戻すべきという意見と、臼杵のシンボルともなっている像の姿を大きく変えることを憂慮する意見との間で激しい論争が起きた



元の位置への修復が国宝指定の条件として文部省(当時)から提示されたため、最終的に元の位置へ復元されることとなった















臼杵磨崖仏全景。建物の中に石仏が安置されている



撮影 令和元年6月8日
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臼杵磨崖仏 その1(大分県臼杵市深田)

2020年02月03日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年6月8日
確か、6年前キャンピングカーを購入した最初の旅で訪れて以来の再訪となる
最近記憶が不確かになってきているが、駐車場や売店も変わったような感じだ

臼杵磨崖仏(国宝・特別史跡)
磨崖仏は4か所に分かれて所在し、それぞれ古園石仏群、山王山石仏群、ホキ石仏第一群、ホキ石仏第二群と称される
ホキとは、「がけ」という意味の地名である



一般には臼杵石仏の名で知られている
1952年(昭和27年)に国の特別史跡に、1995年(平成7年)には、磨崖仏として日本初、彫刻として九州初の国宝に指定された



有料施設なので周辺地図や案内板の内容を記載した資料など配付して貰いたい



清浄香



寺社でいうと手水舎にあたるものか






「特別史跡臼杵石佛」と刻まれた石柱
新しくなった建物の中に石仏が見えている



「観音の水」



ホキ石仏第二群
第一龕(がん)と第二龕からなる。

第二龕 九品の弥陀
第二龕は九体阿弥陀如来像を中心とする



右の入口側から



記載はないが「不動明王」と思われる



右側から、「観音菩薩立像」 右側 4躯の「阿弥陀如来立像」のうち3躯



正面から。大きすぎてカメラの画角に収まらない



中央に「阿弥陀如来坐像」 (左右に4躯ずつの阿弥陀如来立像を配す)



「阿弥陀如来坐像」



左側 4躯の「阿弥陀如来立像」のうち3躯



一番左にあるはずの「菩薩像」は原形をとどめていない



第一龕



阿弥陀如来坐像を中心に、左右に脇侍菩薩立像を配す



「阿弥陀三尊像」  左から「勢至菩薩」「阿弥陀如来」「観音菩薩」



「観音菩薩立像」



「阿弥陀如来座像」



「勢至菩薩立像」



阿弥陀如来の首の辺りが気になっていた



中尊像については弥勒仏像とする説もある



礎石






次はどちらの矢印に向かって進むのか



撮影 令和元年6月8日
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北川陵墓参考地(宮崎県延岡市北川町長井)

2020年02月01日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年6月7日

北川陵墓参考地
陵墓参考地とは、古記録・地域伝承・墳丘の形態や規模・出土品等により、宮内庁によって皇族の墳墓とされたが、被葬者を特定する資料に欠ける陵墓をいう
西郷隆盛宿陣跡資料館の裏手にあるのが、北川陵墓参考地である



北川陵墓参考地<可愛山陵(えのさんりょう)>由緒
天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)の陵墓として宮内庁から治定されている
ニニギの陵については、「日本書紀」に「筑紫日向可愛山之山陵」との記載がある






和田越決戦に敗れた西郷は、この地が「天孫瓊瓊杵尊の陵墓」だということを知り、この場所に宿陣したと考えられている



西郷は、政府軍が天皇家の先祖の墓に向けて砲撃できないであろうと考えたのである
事実、政府軍は3日2晩にわたって攻撃をすることはなかった



瓊瓊杵尊像



鳥居をくぐり先に進む。御陵と神社が一体となっているのは全国でも珍しい形態だという



朝から雨が降っていなければ「瓊瓊杵尊終焉の地」に来ることはなかった
これも何かの縁だと思い、道の駅で「天孫降臨」という銘柄の焼酎をお土産に購入した






歴史のある九州の地にはロマンがある。陵墓の前に立ちそう思った






撮影 令和元年6月7日
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国営吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手)

2019年12月25日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年6月1日

特別史跡 国営吉野ヶ里歴史公園
私が最後に勤めていた職場では退職者の希望を優先し旅をする習慣がある
私の退職時、九州旅行と、ここ「吉野ヶ里遺跡」を希望した



その後、訪れる機会はあったが叶わず、今回が2回目になる



以前との違いは年齢を重ね、半額以下のシルバー料金となったことだ



逆茂木(乱杭)
米作りが盛んになるにつれて、水や土地を奪い合う争いが起こるようになった



自分たちの集落を守るため、集落の入り口など特に重要な区域には、尖った木の枝や幹でバリケードを築き厳重に守っていた






巧く作っている



順路に従い「南内郭」から歩き始める



南の守り
南門の「守り」には、正門と脇門があり兵士が待機



「正門」は監視を厳重にするため、楼門になっている



櫓門
櫓の四方に盾が置かれ、出入りする人を見張っている



物見櫓









ここの物見櫓には階段があり、上に上がることができる



上からの景色






およそ50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡
この写真からもその規模が理解できると思う






「大人(だいじん)」の妻の家
軍事や土木工事を取り仕切る「大人」の妻の家



中では母親が櫛で娘の髪をといている



「大人(だいじん)」の家
軍事や土木工事を取り仕切る「大人」の家族の家






中では、道具の出来具合を見ている



「王」の家
「王」と家族が暮らしている家



屋根の形が違っている



王と妻






王の力を示す品々が枕もとに置かれている



煮炊屋
食事を作る建物



ここで作られた食事は王や大人たちの家へと運ばれる



集会の館
王や大人たちが集まり、儀式や話し合いをする建物






「北内郭」の方へ移動する



「北内郭」(王の宮殿)
吉野ヶ里のまつりごとを司る最重要区域



田植えや稲刈りの日取り、戦いや狩りの祈りなど、重要な事柄は全てここで決定された



当時は、指導者たちだけが出入りできた神聖かつ特別な場所であった



主祭殿
最上階(高さ約16m)は最重要施設
最高司祭者(巫女)が祖先の霊に祈りを捧げる儀式などが執り行われていた



個人的な考えであるが、私はこの人物こそが「卑弥呼」だと思っている



斎堂
まつりのときに身を清めたり、まつりの儀式に使う道具などが置かれていた






高床住居
ほぼ正方形に近い形をしていることから、吉野ヶ里の最高司祭者の住まいだと考えられている



最高司祭者(巫女)は一般の人々の前には姿を現さなかった
ここはまさしくプライベートな空間だったと思われる



東祭殿
夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ線上にあることから、季節ごとのまつりの儀式が行われた施設と考えられている



織物の倉
祭りや儀式で使われる織物や衣類を収める倉



甕棺(かめかん)墓列
甕棺は棺おけのことで、弥生時代の北部九州だけに見られる



盛り上がった部分に甕棺が置かれている






祠堂
歴代の王の祖霊へお供えを捧げ、お祈りをする建物



北墳丘墓(2100年前の王の威光)



吉野ヶ里集落の歴代の王のものだと考えられている
遺構面と甕棺は本物を展示している



北墳丘墓では、大型甕棺を二個合わせて、そこに大人の遺体をおさめるという葬法を用いられた棺が14基出土している
組み合わされた甕棺の大きさは約2m



公園内を走るバスなども利用できるが、徒歩で戻ることにする






小学生の集団がガイドの話を熱心に聞き学んでいる



柱の近くに成人男性が立っている。比較すると、この建物が巨大であるということがわかる






日差しが強く、帰り際になって若い女性が被っている笠がいいなと思った



出口に着いた。歩きすぎたのか疲労困憊気味。入場する女性の手にも笠



歴史公園センター東口で水分補給をし暫時休憩



撮影 令和元年6月1日
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角島大橋・角島灯台(山口県下関市豊北町神田)

2019年12月20日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年5月30日

角島大橋・角島灯台
退職後にキャンピングカーを購入し、最初の旅で山口県に住む学生時代の友人に案内されたのが始まりである



自然の美しさにはあまり興味がない私だが、案内された「青海島と角島」はトリハダものであった



特に「角島大橋」の約2kmの距離は運転をしていて極めて楽しい時間となる



6年間で4回目になるので、かなり気に入っている場所になる



人気スポットのためか駐車場はいつもいっぱいで観光客で賑わっている



横断歩道通行中に撮ったものである



橋の左側にある展望台に移動する



晴れてはいるがいつもと違い青空がない
干潮の時間帯に訪れたのも初めてとなる



角島大橋からゆっくり周囲の景色を楽しみながら10分ほど走ると「角島灯台」に着く



灯台付近から若者たちの甲高い声が聞こえていたので、海の方へ向かうことにした



海岸近くにヨットが…… この時は優雅な遊びでいいなと海を眺めていた






このヨットだがどうも様子がおかしい。舵の部分が岩に乗り上げているようだ



遠くには海上保安庁の巡視船が停泊している



今朝、道の駅「センザキッチン」のある港で出港準備をしていた船だろうか



浜辺を歩いていると漂流物の多くはやっかいな国からのモノ
海保や自衛隊のおかげで安全に旅ができていることに感謝したい



周辺に観光客がいなくなると危機回避のため人影が動き出す
無風で帆も動かない、満潮を待つしかない感じがする



爽やかな若者の集団が来たので声を掛けてみた
愛知県から来た修学旅行の高校生だった



久し振りに高校生と話をし、数年前まで高校教師をしていたことを思い出した



いつの間にか青空が見えてきた。灯台には青空がよく似合う






この灯台はジュース代程度で上ることができるので高校生に人気なようだ






撮影 令和元年5月30日
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須佐ホルンフェルス (山口県萩市須佐高山北海岸)

2019年12月14日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年5月29日

名勝 天然記念物 須佐ホルンフェルス
朝、道の駅で訪問先の予定を立てているとき、初めて見た横文字が気になり訪れることにした
「ホルンフェルス」とは何だろう……



駐車場の案内板を見てボンヤリだが見当がついた



海を眺めながら、遊歩道を歩くことになる



海側は崖になっているが柵により安全は確保されている



人の姿が見えているので、この場所が目的地のようだ






来た道を振り返ると、駐車場のあるハウスが見える



近づいてきた。高所恐怖症なので少し嫌な感じがしてきた



壁面にペンキを塗ったような岩が見えてきた



頭に浮かんできたのが北海道銘菓の「三方六」(柳月)
北海道住民の多くは理解できると思う



大岩の端にいる男性が飛び込むのではないかと不安になる



「ホルンフェルス」の語源はドイツ語で「角の岩」の意味で、硬く緻密な組織をもち、割るとガラスのように角ばって割れることから名付けられた



須佐ホルンフェルスは、高山斑れい岩等が長径3kmの岩株状岩体として露出している地形全体を指す
その一部である畳岩が観光地として有名なことから、特にこの畳岩を指して須佐ホルンフェルスと紹介している



大きな波を待っていたが、この日はこの程度
(ittokusanflyさん)のYouTube「須佐ホルンフェルスと打ち寄せる白波-ドローン空撮-」






須佐ホルンフェルス大断崖に魅了され、この男性の存在を忘れていた
この場に来てみるとのんびり海を眺めている気持ちが理解できる






足下に目を向けてみよう。ナイフで切ったように岩が割れている



ヒッチコックや横溝正史のように時々画面に登場する(笑)









自然の美しさを見てもあまり感動しない私だが、ここは凄いと思った



来た道を引き返す






遊歩道ですれ違ったグループの声が遠くから聞こえてくる



撮影 令和元年5月29日
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美保関灯台(島根県松江市美保関町美保関)

2019年11月28日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年5月25日

美保関灯台
美保神社から車で10分ほど走ったところにある
時間も早いので寺社ばかりではなく、少し観光の幅を広げてみようと思って行動した
人気スポットなのか、大きな駐車場には乗用車のほか二輪車も多く駐まっていた



これまで訪れた灯台とは少し雰囲気が違っている



「山陰最古の石造灯台」 予備知識もなく訪れたが由緒ある灯台ということが分かった



美保関灯台(登録有形文化財)



「近代化産業遺産」にも認定されている



「世界灯台100選」および「日本の灯台50選」に選ばれている






「美保関灯台ビュッフェ(レストラン)」 元は灯台横の官舎(旧吏員退息所)の建物



展望台から日本海を眺める



隠岐の島から境港行きのフェリーが通り過ぎて行く



若い人から熟年までカップルが多かった
孤独な老人は私一人で、早々に帰ることにした






連日の真夏日ですっかり気力・体力が衰弱
予定はまだあったのだが、最寄りの道の駅でしばし休憩のつもりが、翌朝まで過ごすことになってしまった

撮影 令和元年5月25日
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水木しげるロード(鳥取県境港市大正町)

2019年11月25日 | 名所・旧跡
訪問日 令和元年5月25日

水木しげるロード<境港市にある商店街の名称>
1993(平成5)年7月に誕生した水木しげるロード
誕生から25周年となる2018(平成30)年7月、大規模なリニューアルが完成



JR境港駅から続く約800mの通りに177体の妖怪ブロンズ像が立ち並ぶ
そのうち約三分の一の作品を紹介する








































































妖怪を撮っている私の姿が映っている



「水木しげる記念館」 このあたりが折り返し地点となる



この日も真夏日で、妖怪の中に入っている人間も大変だろうと思う






反対側の歩道を戻る
像のほとんどが小さな子供の目線の場所に置かれていて、撮るには膝をついたり、しゃがんだりしなければならない






































































































撮影 令和元年5月25日
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余部橋梁(兵庫県美方郡香美町香住区余部)

2019年07月23日 | 名所・旧跡
余部橋梁
十数年前に初めて鉄橋を見たときから、今回で6・7回訪れている
今は、道の駅も併設され休憩するには便利な場所になっている



不思議とこの場所に来るときは、いつも雨が降っている
と言うより、雨が降っても大丈夫な「砂の美術館」へ向かう途中にあるのだ



この日は雲一つない快晴ということもあり、カメラを持って車を降りた(2015年以来となる)
EVなども設置され約1分で「空の駅」へ。坂道を上り列車を待ちカメラを構えた頃が懐かしい






ホームにある小さな待合所には発着時刻表



訪れた人が記入した思い出のノートが何冊も置かれていた



私は文章が苦手なので、写真で記録した



餘部鉄橋「空の駅」
ここの線路は車両が通らないため自由に歩くことができる



私の父は国鉄職員だったので、子供の頃は線路でよく遊んだものだ



何故「空の駅」かというと、この場所は地上から約40mの場所にあるためだ
日本海の景色が美しい



高所恐怖症の私でも普通に歩けるような安全対策がとられている



写真を整理して気付いたが自分の目線より下方を撮した写真が一枚もない
自分で心の安全を保っていたようだ



EV内から撮った写真



昭和61年(1986年)12月28日午後1時25分頃、鉄橋を通過中の回送列車が日本海からの突風にあおられ、機関車と客車の台車の一部を残して7両が転落、真下にあった水産加工場や民家を直撃した



転落事故を契機に、架け替えに向けた取り組みがなされ、平成22年8月に現在の余部橋梁が完成した



歴史の継承と観光拠点とするため、鉄橋の一部(餘部駅側の3橋脚3スパン)を展望施設として残した



旧鉄橋直下に自由広場等からなる公園施設とあわせ、平成25年5月に展望施設「空の駅」が完成した



展望施設へ行くには急勾配の上り坂(高低差約40m、延長約300m)を歩行する必要があったため、平成29年11月にエレベーター(愛称:余部クリスタルタワー)を整備した






「空の駅」開設記念碑と東屋









慰霊碑「聖観世音菩薩」



放浪の旅での相棒「ハイエース」



撮影 令和元年5月22日
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多治見市モザイクタイルミュージアム( 岐阜県多治見市笠原町)

2019年06月22日 | 名所・旧跡
多治見市モザイクタイルミュージアム
2年前、ある女性のブログをみて訪れたのが最初である
この奇妙なデザインの建物を見たときには正直驚いたが、もう一度見てみたいという気持ちにさせた



この入口の形も面白い。ドアノブもなく、どのようにして入ったらいいのか悩むと思うが心配ない
突然ドアが開いて「あっ」と少し驚くが、自動になっている



壁には割れた「ご飯茶碗」が貼り付けてあり、壁に彩りを与えている



入館料300円を支払い屋内に入る。団体客や外国人が増えているのも2年前とは違うところだ



順路通り進むのであれば、この階段を一気に4階まで上がり、展示物を見ながら3階・2階・1階と下りてくる



4階には広いスペースがあり、タイルに描かれた作品が飾られている












楠木正成「桜井の別れ」の歴史的名場面も描かれている






この部屋の展示物のなかで、誰もがこの作品を特別な感覚で捉えている



この建物をデザインした人は「藤森照信氏」 この部屋には風雨を遮る窓もなく、冬には雪も入ってくるという造りになっている



近づいてみると、小さなタイルが貼り付けているのがわかる






このテーブルと椅子もタイルが貼られててできている



来館者のほとんどが女性である
爺独りの入館は、徘徊か好色かと思われるのもいやなので、カメラマンを装って堂々としている



3階はタイルの歴史や製造過程についてわかりやすく展示されている
気に入った馬の作品を撮ってみた



2階は2年前とは大きく変わっていた。写真のように色々な種類のタイルを展示していただけだったのが-



このように、タイルを使用した部屋づくりをしている



狭い空間を上手く使って、タイルの良さを引き出しているのがわかる。壁に木の葉模様のタイルを貼っている












散歩から帰った愛犬用のシャワー






私と同じようにこの建物をじっと見つめている女性がいる



撮影 令和元年5月15日
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