荷風全集第2巻(岩波書店)に、逗子で書かれた文章が何編か載っています。はっきり「逗子」と書いてあるのは次の2編。
逗子は御存知の如く気候暖く候故、屋後の梅花已に綻び、門前の柳枝も青き眉を作らんと致し居り候、小生は相変らず超世間的の無意義なる生涯を此の静けき田圃の中に送り居り候、どんぐりの背丈くらべする様な文壇に乗出して名を買はうと云ふ野心も今は全くなくなり、心静に読書致す事を得候ふは何よりも嬉しき事と存じ候。(明治35年2月5日「饒舌」第1号「逗子より」より)
三十五年六月 逗子海辺豆園にて(初版「地獄の花」跋)
荷風は十代の頃から避暑や病気静養のため、逗子海岸に近い父の別荘で過ごすことがありました。明治35年は荷風が22歳の年にあたります。
豆園とは永井荷風の父久一郎が逗子に構えた別荘「十七松荘」のこと。17本の老松があったのが名前の由来。今の住所でいうと新宿1丁目です。
久一郎は明治35年「対君山楼」を新築。徳富蘇峰が明治29年に建てた「老龍庵」の後ろ隣で、現在の住所では桜山8丁目です。登録有形文化財・旧脇村家住宅のすぐ前くらいの位置ですね。
2017年6月15日の当ブログに、逗子駅から対君山楼への道順を「冷笑」より引用してあります。
写真の富士見橋に向かって左側が十七松荘、右側が対君山楼のあった場所です。
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