村形さんとは、私の所属する短歌結社「塔」のインターネット歌会で知り合った。
村形さんは、京都大学を定年退官するにあたって、趣味として短歌を始めようと思いつかれた。
それで、同じ京都大学名誉教授仲間であった、わが結社の当時主宰者であった永田和宏氏に相談した。
そうすると、「それじゃ、試しに私の主宰する結社のインターネット歌会にお入りください」ということになったらしい。
それで入ってこられたのであったが、何しろ個性の強い人なので、しばしば歌会が荒れた。いや活気が出たとも?(笑い)
発言はユニークで面白いのだが、ルールを守らないというか、自分勝手な行動が目立った。
それで、若い人たちを中心に、彼女に拒否反応を起こす人が多くいた。
が、私は面白い人が入ってきたという感想を持った。
その後も、歌会をかき乱すような発言を繰り返すので、たまりかねた歌会の主宰者が「退会してください」と言った。
彼も最初はかばっていたが、あまりにも村形さんが悪目立ちすぎたから。
が、彼女はやめなかった。
彼女は、陰で私に憤慨していた。
名誉教授仲間である永田和宏氏にこの歌会の運営者を紹介してもらって参加させてもらうようになったのに、その運営者は私に対して騎士でないと。
まあ、ここらあたりは、村形さんの勝手な言い分で、聴きようによっては噴飯ものであった。
が、私は彼女をかばった。
というより、私は、それまでもやめさせられそうになった人を何人かかばってきた。
なぜかというと、ちょっと雑談が多かったからとか、発言の内容が低俗であったとかいう理由でやめさせられるのは可哀想だという弱者支援の気持ちからであった。
村形さんの場合は、最初の頃は、短歌も始めたばかりであったことも相まって、変な発言も散見された。
それだけじゃなく、それを注意されると、猛然と食ってかかるので、それが問題視された。
が、私は彼女をかばい続けた。
彼女は、さらに皆に虐められていると言い出した。
誰も虐めてはいなかったのだが、たとえば彼女が誰かを名指しで発言したときに、その名ざしされた人が応えなかったりしたら、彼女は虐められたと騒ぐので、歌会の主宰者が、必ずしも虐めているわけではなく、全部が読まれているわけではないから、そういうことも起こりえることを説明したりした。
こんなところは、村形さんは、まるで子供だった。
よく先生と呼ばれる職業の人達に子供じみた人が多いとか言われるが、彼女はその好例だったと言えようか。
私は可愛い人(?)と思って見ていたのだったが、そう見ない人のほうが多くて、結局、歌会の主宰者の窮余の策として、「塔」会員以外の人には歌会から出て行ってもらうことになった。
彼女は会員になっていなかった。
彼女は、当時、主宰者の永田和宏氏をあまり尊敬していなかった。というより全然尊敬していなかったので、そんなところに入会などするものかという気持ちだったのだろう。
しかし、「塔」のインターネット歌会は楽しんでいた。と思う。
で、結局、村形さんは辞めさせられた格好で退会した。
私と同様、彼女の退会を惜しんでいた人はいたと思う。
が、会の運営上、仕方なかったかもしれない。
村形さんは、「塔」の歌会に参加しながら、「日本歌人」にも参加していた。
が、「日本歌人」のほうも、正式な入会ではなく、講読会員だったようだ。
彼女が、「塔」も「日本歌人」も正式に入会しなかったのはなぜかという理由は、彼女から聞かなかった。
なぜだったろう?
村形さんは島津忠夫先生のことは尊敬していたが、結社に入会するほどのことではないと思ったのだろうか。
島津忠夫先生が結社の主宰者というわけではなかったから?
島津先生自身は「私は短歌についていろいろ書きますが、実作はそれほど得意ではありません」というようなことを言われたことがあった。
そういえば、たった2回の参加でしかないが、いずれの回も島津先生の歌の得点はそれほどではなかったように記憶している。
余談だが、この日本歌人の大阪歌会には、偶然、義母の女学校時代の友人が参加していて、この人はものすごく上手だった。
村形さんによると、島津先生が義母の友人の歌を「まるで手品のように上手い」と評したこともあったらしい。
この義母の友人も、義母の嫁である私の入会勧誘に余念がなくて、「あなたの歌は私の歌に似ている。入会すれば、私が歌作りを教えてあげるから」と、この人もしつこかった。(笑)
村形さんは、歌の上手い、この義母の友人を尊敬しまくっていた。
ところで、村形さんがなぜ永田和宏氏を尊敬しなかったかというと、永田和宏氏は京大名誉教授として、彼女の後輩だという理由もあったようだ。
これも余談であるが、
現在はなくなっているようだが、京大医学部の近くに京大会館という建物があった。
私も何度か「塔」誌の校正で訪れたことがあるが、村形さんはそこのレストランに夕食を摂りに行くことが多かった。
夕食後、彼女は、その会館のロビーでテレビを見るのが常だったらしい。
が、あるとき、彼女が、いつも通り、テレビを見ようとロビーにくると、自分の指定席と決めている椅子に永田和宏氏が座っていたと。
彼女は、先輩名誉教授の貫禄を見せてやらないといけないと思って?、「どきなさい」と言ったらしい。(笑)
永田和宏氏は、われわれ「塔」の会員からすれば、神様のような存在である。
が、彼は大人であるから、素直にどいてくれたらしい。^^
さらに話は続いて、「それがね。永田和宏さんは感心なことに京大会館を出る前、わざわざ私のところに来て、『それではお先に失礼します』と丁寧にあいさつをしてから出て行ったの」と。
こういうふうに、村形さんは、強烈なところはあったが、しかし、基本は、お嬢さんがそのままお婆さんになった人という私の母の言葉通りの人であった。
それを私の母に言われた室戸旅行の帰途、
淡路島を渡り終えたあたりで私がトイレに行きたくなり、神戸だったと記憶しているが、下道に降りて、私と夫がトイレに行ったときのことだ。
私達が戻ってくると、彼女が異常におびえている。
どうしたかと聞くと、「車に一人残されたから、すごく怖かった」と子供のようなことを言うのである。
そうそう室戸の宿では、私、夫、母、村形さんの四人が二部屋の続き間に泊まったのであるが、彼女の寝たほうの部屋にはカーテンがついていなかった。
窓の外は海で、外から見られるような窓ではなかったのに、彼女は自分の持参していたタオル、上着、カーディガンなどを総動員して、そのカーテンのかかっていない小窓を塞ごうとしていたことも思い出される。
その様子は、箱入りのお嬢さんがするような思いつきであり、仕事であった。
国立大学の名誉教授という、世間的には人に崇められる存在でありながら、そのすることとのギャップが可愛く、憎めない人であった。
思い出していると、芋づる式にいろいろと思い出される。
ああ、また会いたいなあ。
*
村形さんは、京都大学を定年退官するにあたって、趣味として短歌を始めようと思いつかれた。
それで、同じ京都大学名誉教授仲間であった、わが結社の当時主宰者であった永田和宏氏に相談した。
そうすると、「それじゃ、試しに私の主宰する結社のインターネット歌会にお入りください」ということになったらしい。
それで入ってこられたのであったが、何しろ個性の強い人なので、しばしば歌会が荒れた。いや活気が出たとも?(笑い)
発言はユニークで面白いのだが、ルールを守らないというか、自分勝手な行動が目立った。
それで、若い人たちを中心に、彼女に拒否反応を起こす人が多くいた。
が、私は面白い人が入ってきたという感想を持った。
その後も、歌会をかき乱すような発言を繰り返すので、たまりかねた歌会の主宰者が「退会してください」と言った。
彼も最初はかばっていたが、あまりにも村形さんが悪目立ちすぎたから。
が、彼女はやめなかった。
彼女は、陰で私に憤慨していた。
名誉教授仲間である永田和宏氏にこの歌会の運営者を紹介してもらって参加させてもらうようになったのに、その運営者は私に対して騎士でないと。
まあ、ここらあたりは、村形さんの勝手な言い分で、聴きようによっては噴飯ものであった。
が、私は彼女をかばった。
というより、私は、それまでもやめさせられそうになった人を何人かかばってきた。
なぜかというと、ちょっと雑談が多かったからとか、発言の内容が低俗であったとかいう理由でやめさせられるのは可哀想だという弱者支援の気持ちからであった。
村形さんの場合は、最初の頃は、短歌も始めたばかりであったことも相まって、変な発言も散見された。
それだけじゃなく、それを注意されると、猛然と食ってかかるので、それが問題視された。
が、私は彼女をかばい続けた。
彼女は、さらに皆に虐められていると言い出した。
誰も虐めてはいなかったのだが、たとえば彼女が誰かを名指しで発言したときに、その名ざしされた人が応えなかったりしたら、彼女は虐められたと騒ぐので、歌会の主宰者が、必ずしも虐めているわけではなく、全部が読まれているわけではないから、そういうことも起こりえることを説明したりした。
こんなところは、村形さんは、まるで子供だった。
よく先生と呼ばれる職業の人達に子供じみた人が多いとか言われるが、彼女はその好例だったと言えようか。
私は可愛い人(?)と思って見ていたのだったが、そう見ない人のほうが多くて、結局、歌会の主宰者の窮余の策として、「塔」会員以外の人には歌会から出て行ってもらうことになった。
彼女は会員になっていなかった。
彼女は、当時、主宰者の永田和宏氏をあまり尊敬していなかった。というより全然尊敬していなかったので、そんなところに入会などするものかという気持ちだったのだろう。
しかし、「塔」のインターネット歌会は楽しんでいた。と思う。
で、結局、村形さんは辞めさせられた格好で退会した。
私と同様、彼女の退会を惜しんでいた人はいたと思う。
が、会の運営上、仕方なかったかもしれない。
村形さんは、「塔」の歌会に参加しながら、「日本歌人」にも参加していた。
が、「日本歌人」のほうも、正式な入会ではなく、講読会員だったようだ。
彼女が、「塔」も「日本歌人」も正式に入会しなかったのはなぜかという理由は、彼女から聞かなかった。
なぜだったろう?
村形さんは島津忠夫先生のことは尊敬していたが、結社に入会するほどのことではないと思ったのだろうか。
島津忠夫先生が結社の主宰者というわけではなかったから?
島津先生自身は「私は短歌についていろいろ書きますが、実作はそれほど得意ではありません」というようなことを言われたことがあった。
そういえば、たった2回の参加でしかないが、いずれの回も島津先生の歌の得点はそれほどではなかったように記憶している。
余談だが、この日本歌人の大阪歌会には、偶然、義母の女学校時代の友人が参加していて、この人はものすごく上手だった。
村形さんによると、島津先生が義母の友人の歌を「まるで手品のように上手い」と評したこともあったらしい。
この義母の友人も、義母の嫁である私の入会勧誘に余念がなくて、「あなたの歌は私の歌に似ている。入会すれば、私が歌作りを教えてあげるから」と、この人もしつこかった。(笑)
村形さんは、歌の上手い、この義母の友人を尊敬しまくっていた。
ところで、村形さんがなぜ永田和宏氏を尊敬しなかったかというと、永田和宏氏は京大名誉教授として、彼女の後輩だという理由もあったようだ。
これも余談であるが、
現在はなくなっているようだが、京大医学部の近くに京大会館という建物があった。
私も何度か「塔」誌の校正で訪れたことがあるが、村形さんはそこのレストランに夕食を摂りに行くことが多かった。
夕食後、彼女は、その会館のロビーでテレビを見るのが常だったらしい。
が、あるとき、彼女が、いつも通り、テレビを見ようとロビーにくると、自分の指定席と決めている椅子に永田和宏氏が座っていたと。
彼女は、先輩名誉教授の貫禄を見せてやらないといけないと思って?、「どきなさい」と言ったらしい。(笑)
永田和宏氏は、われわれ「塔」の会員からすれば、神様のような存在である。
が、彼は大人であるから、素直にどいてくれたらしい。^^
さらに話は続いて、「それがね。永田和宏さんは感心なことに京大会館を出る前、わざわざ私のところに来て、『それではお先に失礼します』と丁寧にあいさつをしてから出て行ったの」と。
こういうふうに、村形さんは、強烈なところはあったが、しかし、基本は、お嬢さんがそのままお婆さんになった人という私の母の言葉通りの人であった。
それを私の母に言われた室戸旅行の帰途、
淡路島を渡り終えたあたりで私がトイレに行きたくなり、神戸だったと記憶しているが、下道に降りて、私と夫がトイレに行ったときのことだ。
私達が戻ってくると、彼女が異常におびえている。
どうしたかと聞くと、「車に一人残されたから、すごく怖かった」と子供のようなことを言うのである。
そうそう室戸の宿では、私、夫、母、村形さんの四人が二部屋の続き間に泊まったのであるが、彼女の寝たほうの部屋にはカーテンがついていなかった。
窓の外は海で、外から見られるような窓ではなかったのに、彼女は自分の持参していたタオル、上着、カーディガンなどを総動員して、そのカーテンのかかっていない小窓を塞ごうとしていたことも思い出される。
その様子は、箱入りのお嬢さんがするような思いつきであり、仕事であった。
国立大学の名誉教授という、世間的には人に崇められる存在でありながら、そのすることとのギャップが可愛く、憎めない人であった。
思い出していると、芋づる式にいろいろと思い出される。
ああ、また会いたいなあ。
*
国立大名誉教授の子供じみたしぐさ愛しく思ひだすなり
白髪のお嬢さんなるお婆さん乗せて走れり鳴門大橋
いかめしき人と世間は思ふらむいかめしくなく愛しき人を
ブログ読んで村形先生やお母様にお会いしたいと思う読者のハイジ。
短歌の結社【塔】や【日本歌人】には入りたいとは思いません。
結社に入るには10年早いですね。
滋賀県歌人協会に義理で入るべきか否か考慮中。
銀河の全員と足並み合わせます。
銀河の先生が選者副会長で楯が貰えると勧められますが。
選ばれないし楯も欲しくない。
自由人で束縛嫌い。
短歌の上達は望みます。
成生任せの短歌人生を。
明日11日と14日から15日は次女一家の所に。
紅葉狩りと幼稚園の生活発表会に出かけます。
凡人には夢幻の世界ですがお友達村形先生の人生尊敬し憧れますね。
彼女自身が京大名誉教授という肩書をいっさい引けらさなかったのと同様に、人に威張られるのは、絶対いやだったんだと思います。
結社に入ると、どうしても上下の関係ができて、言葉は悪いですが、威張られることが出てきますから。
彼女は、それを避けたかったのかもしれません。
ハイジさんのおかげで、村形さんの謎の一つが解けました。
村形さんの強烈な性格は、私の母の性格とうり二つで、母と引き合わせる前から村形さんにはそう言ってありました。
実際会うと、二人は完全に意気投合したのでした。(笑)