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五月連休も終盤に近づいた。
夫は、今日も高野山に出向いた。この頃、空海に魅かれているようだ。
私も誘われたが、読みたい本があることと頂いた歌集の感想も書きたかったから留守居することに。
これからご紹介するのは、私と同じ結社「塔」に所属する伊藤京子さんの第三歌集『木母』。
伊藤さんは、私も参加している「塔」のインターネット歌会のお仲間でもある。
先月4月は1ヶ月間、その歌会の司会をしていただいた。
その歌会の司会は前の月の一番の高得点者がする約束になっている罰ゲームである。
というのは冗談だが、その前月の3月歌会では30人ほどの出詠者中、伊藤さんが最高得点者であったということだ。
で、その伊藤さんの歌集『木母』の帯文は「塔」の前主宰、永田和宏氏。
第三歌集ということは、かなり歌歴を重ねてこられた方ということになる。
が、「塔」に入会されたのは平成22年5月と書かれてあるので、「塔」歴はそれほど長くはない。
歌集中の歌から拝察するに、伊藤さんは、現役の小学校の先生であられるようだ。
と、前置きが長くなってしまったが、今日はその感想文をしたためてみた。この私の感想文で、いただいた歌集を汚してしまうことにならないければよいのだが・・・。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まず、歌集名となった「木母(もくぼ)」とは、梅の異称だそう。
その木母を入れた歌は、
わが語尾のきつくなりしか茶箪笥より木母(もくぼ)の菓子器転げ落ちたり
読み始めると、のっけからユーモア溢れる歌のオン・パレードだ。たとえば、
0歳と60歳が午睡せりにんげん図鑑のやうに並んで
こんばんはと甲小橋(かぶとこばし)にすれ違ふわたしの産んだ男と知らず
人間のあけぼののやうにのつそりと二足になつて布団より出る
0歳と60歳の歌は、お孫さんと作者のお連れ合いが並んで寝ている様を詠われたのだろう。「人間図鑑のやうに」とは上手く言ったものだと思う。
甲小橋という橋で若い男に「こんばんは」とすれ違い様に挨拶をしてから、自分の息子と気づいた。その自分のうかつさを詠って読者を笑わせてくれる。しかし夕暮れで顔が定かに見えねば、つい誰でもやってしまいそうな・・・。
三首目は、ご自分の寝起きを詠われたのだろうか。「人間のあけぼののやうに」とは、どのような寝起きだろう。想像できるような、できないような・・・。結社の先生の花山多佳子さんの歌に「子を抱きて穴より出でし縄文の人のごとくにあたりまぶしき」というのがあるが、その歌を思い出した。
この歌集は、最初から最後まで、ユーモアの温もりに包まれているが、
しかし、中には、ハッと考えさせられる歌も。
(詞書)口蹄疫
牛や豚食肉にして食べてしまふことより惨きことあらなくに
豚トロを焼けば燃え上がる火の中にいつまでも生なるところあり
殺虫剤掛けられし蜂は怒りつつ畳の上に死なねばならぬ
日ごろ私達は、既に食肉になったものを口にするから意識しないが、時には生きていた牛や豚を殺して、その肉をいただいているということにも思いを致す必要があるだろう。
豚トロは豚肉の中でも特においしい部位だが、しかし、調理していた作者は、その脂身に火がついて燃え上がったせつな、生きていた豚の生身を感じて気味悪く思ったのだろう。そして、生き物を食べて生きている人間の業のようなものに思いを馳せたかもしれない。
蜂は蜂蜜の採取に利用されることもあるが、身近な場所に出没されたら蝿と同じく害虫の扱いをされる。しかし、害虫と決め付けるのは人間の勝手であって、蜂にすれば、殺されることは理不尽なことだ。情け深い作者は、人間側の都合で殺虫剤で殺しながらも、蜂の怒りを歌にして代弁してやっているのである。
発見というか比喩の歌にも注目。
舞踏会に汗ばみてゐるコルセットのやうな花束 ゴムを切りやる
カサブランカ大きめしべの向き向きが咲きし数だけ残つてゐたり
花束をきっちり縛ったゴム輪に舞踏会の衣装の下着のコルセットを連想している。この比喩は、女性であればすんなり納得できるし、男性でも、ある程度女性の服飾に長けていれば理解できると思う。
咲き終えたカサブランカの花びらは既になくなり、花のあった箇所には花の数だけ黄色いめしべが残されている。当たり前のことを詠っているようだが、普通の人なら見過ごすところを掬い取って詠っている。
父上の臨終に接しても感情に溺れてしまわず、的確に表現できる作者と思って読ませてもらった歌。
長病みの父の髪膚(はつぷ)に父をらず弟の背にときおり顕ちぬ
(詞書)四国・中国を縦断した台風十二号、豪雨で死者不明者九十名
迫りくる大型台風待つやうな警戒レベル父の喀痰
ベッドで寝ている父上は作者の心の中に残っている父上像ではもうないのだ。その代わりに、その父上の姿をその息子である作者の弟に見てしまうと詠っている。
大型台風が近づいてくる時、われわれは心配ばかりして、実際に何か対策が立てられるわけではない。ただ迎え待つしかない、その落ち着かなさを比喩にして、父上の臨終に立ち会う気持ちを表現している。
そして、場面はお孫さんが誕生して、息子さんは仕事盛りとなっていく歌が詠われ、最後ハッピーエンドとなるような歌集だが、最初に書いたように、集中ユーモアが貫かれているため、読者は一度も退屈させられることなく、最終章まで運ばれる構成になっている。
たくさん楽しませてもらい、たくさん勉強をさせてもらった。
伊藤京子さん、どうもありがとうございました。
夫は、今日も高野山に出向いた。この頃、空海に魅かれているようだ。
私も誘われたが、読みたい本があることと頂いた歌集の感想も書きたかったから留守居することに。
これからご紹介するのは、私と同じ結社「塔」に所属する伊藤京子さんの第三歌集『木母』。
伊藤さんは、私も参加している「塔」のインターネット歌会のお仲間でもある。
先月4月は1ヶ月間、その歌会の司会をしていただいた。
その歌会の司会は前の月の一番の高得点者がする約束になっている罰ゲームである。
というのは冗談だが、その前月の3月歌会では30人ほどの出詠者中、伊藤さんが最高得点者であったということだ。
で、その伊藤さんの歌集『木母』の帯文は「塔」の前主宰、永田和宏氏。
第三歌集ということは、かなり歌歴を重ねてこられた方ということになる。
が、「塔」に入会されたのは平成22年5月と書かれてあるので、「塔」歴はそれほど長くはない。
歌集中の歌から拝察するに、伊藤さんは、現役の小学校の先生であられるようだ。
と、前置きが長くなってしまったが、今日はその感想文をしたためてみた。この私の感想文で、いただいた歌集を汚してしまうことにならないければよいのだが・・・。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まず、歌集名となった「木母(もくぼ)」とは、梅の異称だそう。
その木母を入れた歌は、
わが語尾のきつくなりしか茶箪笥より木母(もくぼ)の菓子器転げ落ちたり
読み始めると、のっけからユーモア溢れる歌のオン・パレードだ。たとえば、
0歳と60歳が午睡せりにんげん図鑑のやうに並んで
こんばんはと甲小橋(かぶとこばし)にすれ違ふわたしの産んだ男と知らず
人間のあけぼののやうにのつそりと二足になつて布団より出る
0歳と60歳の歌は、お孫さんと作者のお連れ合いが並んで寝ている様を詠われたのだろう。「人間図鑑のやうに」とは上手く言ったものだと思う。
甲小橋という橋で若い男に「こんばんは」とすれ違い様に挨拶をしてから、自分の息子と気づいた。その自分のうかつさを詠って読者を笑わせてくれる。しかし夕暮れで顔が定かに見えねば、つい誰でもやってしまいそうな・・・。
三首目は、ご自分の寝起きを詠われたのだろうか。「人間のあけぼののやうに」とは、どのような寝起きだろう。想像できるような、できないような・・・。結社の先生の花山多佳子さんの歌に「子を抱きて穴より出でし縄文の人のごとくにあたりまぶしき」というのがあるが、その歌を思い出した。
この歌集は、最初から最後まで、ユーモアの温もりに包まれているが、
しかし、中には、ハッと考えさせられる歌も。
(詞書)口蹄疫
牛や豚食肉にして食べてしまふことより惨きことあらなくに
豚トロを焼けば燃え上がる火の中にいつまでも生なるところあり
殺虫剤掛けられし蜂は怒りつつ畳の上に死なねばならぬ
日ごろ私達は、既に食肉になったものを口にするから意識しないが、時には生きていた牛や豚を殺して、その肉をいただいているということにも思いを致す必要があるだろう。
豚トロは豚肉の中でも特においしい部位だが、しかし、調理していた作者は、その脂身に火がついて燃え上がったせつな、生きていた豚の生身を感じて気味悪く思ったのだろう。そして、生き物を食べて生きている人間の業のようなものに思いを馳せたかもしれない。
蜂は蜂蜜の採取に利用されることもあるが、身近な場所に出没されたら蝿と同じく害虫の扱いをされる。しかし、害虫と決め付けるのは人間の勝手であって、蜂にすれば、殺されることは理不尽なことだ。情け深い作者は、人間側の都合で殺虫剤で殺しながらも、蜂の怒りを歌にして代弁してやっているのである。
発見というか比喩の歌にも注目。
舞踏会に汗ばみてゐるコルセットのやうな花束 ゴムを切りやる
カサブランカ大きめしべの向き向きが咲きし数だけ残つてゐたり
花束をきっちり縛ったゴム輪に舞踏会の衣装の下着のコルセットを連想している。この比喩は、女性であればすんなり納得できるし、男性でも、ある程度女性の服飾に長けていれば理解できると思う。
咲き終えたカサブランカの花びらは既になくなり、花のあった箇所には花の数だけ黄色いめしべが残されている。当たり前のことを詠っているようだが、普通の人なら見過ごすところを掬い取って詠っている。
父上の臨終に接しても感情に溺れてしまわず、的確に表現できる作者と思って読ませてもらった歌。
長病みの父の髪膚(はつぷ)に父をらず弟の背にときおり顕ちぬ
(詞書)四国・中国を縦断した台風十二号、豪雨で死者不明者九十名
迫りくる大型台風待つやうな警戒レベル父の喀痰
ベッドで寝ている父上は作者の心の中に残っている父上像ではもうないのだ。その代わりに、その父上の姿をその息子である作者の弟に見てしまうと詠っている。
大型台風が近づいてくる時、われわれは心配ばかりして、実際に何か対策が立てられるわけではない。ただ迎え待つしかない、その落ち着かなさを比喩にして、父上の臨終に立ち会う気持ちを表現している。
そして、場面はお孫さんが誕生して、息子さんは仕事盛りとなっていく歌が詠われ、最後ハッピーエンドとなるような歌集だが、最初に書いたように、集中ユーモアが貫かれているため、読者は一度も退屈させられることなく、最終章まで運ばれる構成になっている。
たくさん楽しませてもらい、たくさん勉強をさせてもらった。
伊藤京子さん、どうもありがとうございました。
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