秋もぐっと深まってまいりました。
旧暦九月十三日の栗名月とも言われる十三夜は、旧暦八月十五日中秋の名月と並ぶ名月です。
国定一家が、上州赤城の山を下ったのは、三室勘助殺害後の十三夜と言われています。
勘助の墓碑によると、勘助の命日は天保十三年の九月八日です。
芝居や浪曲でおなじみの、国定忠治が子分たちと別れて山をくだる名場面は、天保十三年九月十三日(西暦1842年10月16日)の夜だったと想定できます。
芝居では、この夜月が輝き、雁が渡っていったことになっております。
さて、当日午後9時ころの天気はどうだったのでしょうか。
各地の史料によりますと、北海道厚岸町、栃木県二宮町、和歌山県田辺市、山口県萩市、鹿児島市など全国的に晴で、秋の移動性高気圧に覆われ好天だったことが分かります。江戸の儒学者 松崎慊堂の日記には「夜、月はなはだ佳、冷やか」とあり富山県氷見市の「応響雑記」にも「快晴、霜気」とあり夜の放射冷却は厳しかった様子です。
雁は、新暦の9月末頃から本州に飛来しますから、忠治が山を下りる時、十三夜の月が皓々と輝き雁が渡って行った可能性は大いにあります。
私は、赤城山の名場面は真実だったのではないかと思っております。
ただ、地元の大間々町の大泉院日記によりますと「晴天、後の月晴るる、夜半頃より曇」とありまして、赤城山は、夜12時ころからは曇って来たようです。忠治が涙で曇らせたのでしょうか。
日本酒の美味い季節になってきました。今年の十三夜は10月30日です。名月が出ていましたら忠治の心持で、
「生まれ故郷で見る月も、赤城の山で見る月も、月に変わりはねえけれど、変わるこの身がうらめしい。」
と月に向かって嘯くのも一興です。
旧暦九月十三日の栗名月とも言われる十三夜は、旧暦八月十五日中秋の名月と並ぶ名月です。
国定一家が、上州赤城の山を下ったのは、三室勘助殺害後の十三夜と言われています。
勘助の墓碑によると、勘助の命日は天保十三年の九月八日です。
芝居や浪曲でおなじみの、国定忠治が子分たちと別れて山をくだる名場面は、天保十三年九月十三日(西暦1842年10月16日)の夜だったと想定できます。
芝居では、この夜月が輝き、雁が渡っていったことになっております。
さて、当日午後9時ころの天気はどうだったのでしょうか。
各地の史料によりますと、北海道厚岸町、栃木県二宮町、和歌山県田辺市、山口県萩市、鹿児島市など全国的に晴で、秋の移動性高気圧に覆われ好天だったことが分かります。江戸の儒学者 松崎慊堂の日記には「夜、月はなはだ佳、冷やか」とあり富山県氷見市の「応響雑記」にも「快晴、霜気」とあり夜の放射冷却は厳しかった様子です。
雁は、新暦の9月末頃から本州に飛来しますから、忠治が山を下りる時、十三夜の月が皓々と輝き雁が渡って行った可能性は大いにあります。
私は、赤城山の名場面は真実だったのではないかと思っております。
ただ、地元の大間々町の大泉院日記によりますと「晴天、後の月晴るる、夜半頃より曇」とありまして、赤城山は、夜12時ころからは曇って来たようです。忠治が涙で曇らせたのでしょうか。
日本酒の美味い季節になってきました。今年の十三夜は10月30日です。名月が出ていましたら忠治の心持で、
「生まれ故郷で見る月も、赤城の山で見る月も、月に変わりはねえけれど、変わるこの身がうらめしい。」
と月に向かって嘯くのも一興です。
国定忠治とは、ステキです。
今夜の満月も、煌々と輝いています。
こんなに明るいのに、月夜は寂しい。
当時のお天気、本当に寒そうです。
忠治親分の心にも、寒さと寂しさが沁みていた事でしょう。
日本酒、良いですね。
ちょっと飲みたくなりました(笑)
向寒の砌、ご自愛下さい。