先日、下総国貝塚村 與治右衛門の年中日記帳を読みました。
この日記は、貝塚村(千葉県匝瑳市)に住む御百姓、與治右衛門の日々の生活と世状が記されています。
この日記は安政五年の一年分の日記ですが、珍しいことに月毎の労働日と休日が書かれています。
以下紹介しますと、
一月 〆 十二日休
十七日働
二月 〆 十日休
二十日働キ
三月 〆 九日半不働休
十九日半働申候
四月 〆 十日休
十九日働キ
五月 〆 六日半休
二十三日半働
六月 〆 二十日働キ
九日休ス
七月 〆 二十日半働
八日半休
八月 〆 五日風待
二十五日働
九月 〆 十日不働
二十日働
十月 〆 四日休
二十五日働
十一月〆 八日休
二十二日働
十二月〆 七日休
二十三日働
凡 三百五拾四日之内
年中〆 九十九日休
弐百五十五日働
とありまして、農繁期の休みは少ないことが分かりますが、年間で354日のうち255日働き99日休みと書かれています。
割合にしますと、二割八分が休日となっています。これを週に直しますと1.96日の休日となっています。
貝塚村 御百姓 與治右衛門さんは、概ね週休二日だったことが分かります。
ちなみに、一月の日記から労働記録を抜いて見ますと、
元旦 休
二日 縄壱ツなへ 休
三日 草履作る 弐足 休
四日 熊手□本拵へ 休
五日 宮本より八日市綿買ニ行、ヲダキ削り 休
六日 朝山入前嶋、夫より赤羽根山刈、昼より宝光寺へ働キニ行
七日 斧柄拵へ、小仕業
八日 長崎□□□ 山刈
九日 長崎赤羽根 山刈
十日 前嶋赤羽根 山苅
十一日 前同様山苅
十二日 屋形年玉ニ行
十三日 長崎山苅
十四日 赤羽根ソダマルキ
十五日 酒屋ニ而若蔵nへ行
十六日 平兵衛□□礼
十七日 平兵衛花ゆキ
十八日 飯倉山苅
十九日 飯倉山苅
二十日 昼より祭礼ニ行
二十一日 四ツ半より祭礼ニ行
二十二日 早朝より善右衛門葬礼ニ行、穴掘役
二十三日 飯倉山苅
二十四日 草履作る
二十五日 ヲダ木棟削り、昼より祭礼ニ行
二十六日 飯倉山苅 麦作入
二十七日 七兵衛へ山茅カケ渡ス、四ツ□鎮守田土入 休
二十八日 瓜保タメ出し 休
二十九日 モツコ拵へ
とあります。
一月は、農閑期なにで、山仕事が中心のようです。
十二日休みと記していますが、休と書いてあるのは元旦から五日迄と二十七日、二十八日の七日間です。他の五日は日記の内容から、平兵衛の花に行った十六、十七日、祭礼と葬式の二十、二十一、二十二日が休みではないかと思われます。
ただ、休みの日でも縄や草鞋熊手などを作ったり、タメを出したり、ちょこちょこ仕事をしていたようです。
結論を申し上げますと、週休二日位を、当人の與治右衛門は意識していたようですが、勿論曜日の感覚はなく、用事があると休みを取っていたようで、一日の労働時間も分かりません。
私の感覚では、明治から昭和の人程は働いていなかったような感じです。
明治政府によって民衆はネジを巻き込まれ、労働に戦争に駆り出されて行ったような気もします。
今の世の中を見ますと、物騒で世の中終わりになるかも知れません。
鎖国をして、儒学を学問の中心に据えた、徳川幕府は偉大な平和主義だったと思います。
この日記は、貝塚村(千葉県匝瑳市)に住む御百姓、與治右衛門の日々の生活と世状が記されています。
この日記は安政五年の一年分の日記ですが、珍しいことに月毎の労働日と休日が書かれています。
以下紹介しますと、
一月 〆 十二日休
十七日働
二月 〆 十日休
二十日働キ
三月 〆 九日半不働休
十九日半働申候
四月 〆 十日休
十九日働キ
五月 〆 六日半休
二十三日半働
六月 〆 二十日働キ
九日休ス
七月 〆 二十日半働
八日半休
八月 〆 五日風待
二十五日働
九月 〆 十日不働
二十日働
十月 〆 四日休
二十五日働
十一月〆 八日休
二十二日働
十二月〆 七日休
二十三日働
凡 三百五拾四日之内
年中〆 九十九日休
弐百五十五日働
とありまして、農繁期の休みは少ないことが分かりますが、年間で354日のうち255日働き99日休みと書かれています。
割合にしますと、二割八分が休日となっています。これを週に直しますと1.96日の休日となっています。
貝塚村 御百姓 與治右衛門さんは、概ね週休二日だったことが分かります。
ちなみに、一月の日記から労働記録を抜いて見ますと、
元旦 休
二日 縄壱ツなへ 休
三日 草履作る 弐足 休
四日 熊手□本拵へ 休
五日 宮本より八日市綿買ニ行、ヲダキ削り 休
六日 朝山入前嶋、夫より赤羽根山刈、昼より宝光寺へ働キニ行
七日 斧柄拵へ、小仕業
八日 長崎□□□ 山刈
九日 長崎赤羽根 山刈
十日 前嶋赤羽根 山苅
十一日 前同様山苅
十二日 屋形年玉ニ行
十三日 長崎山苅
十四日 赤羽根ソダマルキ
十五日 酒屋ニ而若蔵nへ行
十六日 平兵衛□□礼
十七日 平兵衛花ゆキ
十八日 飯倉山苅
十九日 飯倉山苅
二十日 昼より祭礼ニ行
二十一日 四ツ半より祭礼ニ行
二十二日 早朝より善右衛門葬礼ニ行、穴掘役
二十三日 飯倉山苅
二十四日 草履作る
二十五日 ヲダ木棟削り、昼より祭礼ニ行
二十六日 飯倉山苅 麦作入
二十七日 七兵衛へ山茅カケ渡ス、四ツ□鎮守田土入 休
二十八日 瓜保タメ出し 休
二十九日 モツコ拵へ
とあります。
一月は、農閑期なにで、山仕事が中心のようです。
十二日休みと記していますが、休と書いてあるのは元旦から五日迄と二十七日、二十八日の七日間です。他の五日は日記の内容から、平兵衛の花に行った十六、十七日、祭礼と葬式の二十、二十一、二十二日が休みではないかと思われます。
ただ、休みの日でも縄や草鞋熊手などを作ったり、タメを出したり、ちょこちょこ仕事をしていたようです。
結論を申し上げますと、週休二日位を、当人の與治右衛門は意識していたようですが、勿論曜日の感覚はなく、用事があると休みを取っていたようで、一日の労働時間も分かりません。
私の感覚では、明治から昭和の人程は働いていなかったような感じです。
明治政府によって民衆はネジを巻き込まれ、労働に戦争に駆り出されて行ったような気もします。
今の世の中を見ますと、物騒で世の中終わりになるかも知れません。
鎖国をして、儒学を学問の中心に据えた、徳川幕府は偉大な平和主義だったと思います。
更新を楽しみに待っています。
怠惰な更新で、お恥ずかしい限りです。
相変わらず、古文書から天気記事を拾っています。
今年もよろしくお願いします。