幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

難物 天保八年の「晴雨日記」

2020-10-19 18:49:12 | Weblog


手元に 快生堂の「晴雨日記」があります。

記事は



のとうり、天保八年一月十五日から九月末までの天候記録です。

筆者は「快生堂」「宅 山園定之」となるのですが、



ここで、大きな問題がありました。
書かれた場所がわからないのです。
書かれた月日と書かれた場所がわかりませんと、気象デ-タの価値がなくなってしまいます。

最初に「晴雨日記」を見たときは、てんきで-タのみ書かれた良い史料だなあ、と思ったのですが
書かれた場所が分かりません。
通常の日記ですと、地名や神社仏閣から、作られた場所が凡そでも想定されるのですが、天気記事だけで
まったく手掛かりがありません。
 地震の記事も探してみましたが書き込みがありません。
ざっと見にはお手上げです。

仕方がないので、他のキショウデ-タと見比べながら場所を割り出してみたいと思っています。

イエスアイキャン、イエスアイキャン、イエスアイキャン

とは言ってみたものの ノ-アイキャントのような気もします。
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アマビエさまの御真言

2020-09-27 12:01:18 | Weblog
 昨今、コロナの流行で、アマビエ様が大流行だぞとよ

阿弥陀如来さまには「南無阿弥陀仏」
キリストさまには「ア-メン」
不動明王さまには「のおまくさんまんたら、さらだせんだま-かろしゃだ-や、そわたらや、うんたらた、かんまん」
と神様、仏様には、それぞれお唱えする真言があります。

それでは、アマビエ様はいかがでしょうか。
多分なかったように思います。

そこで、 幕末に疫病が流行した時の、まじないの言葉をしらべてみました。
安政五年 のコレラの節の、まじないのうた 
     梅か香は 其木ばかりに香りして 余の木のえだに うつる かもなし     
  天がした 神のみすゑの 国なれば 光れるふしの さわりもあらまじ【塩屋記録】【伊予市】
がありました。
 
また、文久二年のはしか流行の節のまじないとして
はしか除 (多羅葉に書く)
麦殿ハ生まれぬ先にはしかして  かせての後ハ我身なりけり○  何才 誰、、○印の処へ灸を三火  すへ川へ御流し可被成候【大高氏記録】【水戸】
とありました。

文久二のはしか除けをコロナ除けになおしてやってみました。
まずは、葉書の元になったと言われる多羅葉の葉と釘、現代版お灸を用意しました。



葉の裏に釘で、まじないの言葉を書き灸をしました。




灸をすえた後、アマビエさまを念じながら、心静かに近くの川にお流ししました。

麦殿ハ 生まれぬ先にコロナして  かせての後ハ我身なりけり
南無アマビエ大明神、南無アマビエ大明神

                       







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盆だな

2020-08-16 12:43:16 | Weblog
気象デ-タの入力や古文書の整理で忙しく。
記事がおろそかになっております。
さらに、お盆は盆だな飾りやお墓掃除です。
今年も盆だな飾りました。


盆だなは地方と言うより、家々によって違うようです。

ブログに残すと、ずっと消えないと言う話を聞いたことがありますので、
私の備忘のため、アップさせて頂きます。
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安政五年 コレラ流行の期間

2020-04-25 18:45:45 | Weblog
大変な世の中になってしまいました。
コロナの収拾は何時になるのでしょうか。飲み屋も閉まってしまいました。
そこで、安政五年に流行したコレラの流行期間を調べてみました。
何の御役にも立たないでしょうが、書き溜めていた安政五年のコレラ年表を出してみました。


    旧暦月日   新暦月日
安政五年 7月16日 8月24日 コレラ病段々致流行、於御国元も川副辺、三四百人、市中二百五拾人余、御家中ニも、、数十人死人有之候事、、右之通流行頻ニ有之候付、予防之薬カミルレ三拾三匁、其後十匁両度代品方ヨリ買取相用候事【伊東次兵衛出張日記】【佐賀】
安政五年 7月22日 8月30日 近在急病多く、村々葬式たへず、一時殺シ冒暑と云病とも申、又ハコロリと申、廿日吉原ニて畑ニて鍬を取ながら倒死ス、廿一日富士川船頭、梶を取ながら倒死ス【袖日記】【富士宮】
安政五年 7月29日 9月6日 水府御家来之風聞付、さはぎ有之候、、七月末より頓死のもの多し、八丁堀辺殊ニ多し、疫病なるへし【齊藤月岑日記】【江戸】当年ハ市中別而大不景気商ひ一円無之【大高氏記録】【水戸】
安政五年 8月1日 9月7日 八月頃より、とんころりト唱へ俄ニ病気差発り、一、二時、半日、一日迄ニ死去大阪ニ而ハ大流行、、六月七月へかけ大阪ハ無少当所池田辺多く由、、前代未聞之病気【天保以来永代記】【伊丹】国々村々湿霍乱又暴瀉病と云う、死する者多し、又惣身に小痘を発する者十人に八、九人【指田日記】【武蔵村山】
安政五年 8月7日 9月13日 此頃永代橋の上、一日に葬禮六七十、浅草御門九十程通り候由【齊藤月岑日記】【江戸】
安政五年 8月8日 9月14日 しからきの前葬禮四十人余通り、亀の尾の前廿五と云也【齊藤月岑日記】【江戸】
安政五年 8月9日 9月15日 コレラ。一日の死者蓋,百千人也【江木鰐水日記】【江戸】
安政五年 8月13日 9月19日 此節江戸表にてころりと申病気流行ニ而一日か二日腹痛いたし相果候よし、一日ニハ弐百人余ツツ相果候よし【大高氏記録】【水戸】
安政五年 8月14日 9月20日 厄病流行に付き、、御祈祷【出石藩御用部屋日記】
安政五年 8月16日 9月22日 コロリと云病弥はやる、葬禮夥し、すだ丁通日々五十口六十口其余も通る、永代橋、柳はしナド殊ニ多し【齊藤月岑日記】【江戸】
安政五年 8月17日 9月23日 此の節、府内疫邪、殊に夥しく日々死する者千人余、煩う者三日を過ぎずして死す、世俗是れを三日コロリと名づく、是れに依りて村内百万遍、又神明拝殿で日待【指田日記】【武蔵村山】
安政五年 8月20日 9月26日 フランス真福寺着、、病死、、フランス人ニも有之よし【齊藤月岑日記】【江戸】上方筋より流行六月末より七月中上方流行致候此節東海道筋大流行【大高氏記録】【水戸】
安政五年 8月22日 9月28日 七月下旬より急病ニ而死ニ人多く日々五六百人程死焼場ニ死人積候様子申来ル、世に三日ころりと申候【高木在中日記】【京都】
安政五年 8月23日 9月29日 幕府コレラの治療予防法の冊子を頒布【再現日本史】夜父流行コレラニ付【久保松太郎日記】【萩】9/1父病気快シ二三日追々快シ。フランス鎌倉河岸へ徘徊せし由、、葬禮通行少し減候由【齊藤月岑日記】【江戸】
安政五年 8月24日 9月30日 江戸中、当月十日迄死人書上四万八千人余のよし、今月末の書出弐十六万人程と申す【大高氏記録】【水戸】
安政五年 8月26日 10月2日 近頃異国より渡候由に而霍乱之様成病に而至(急に)取詰死に及候症、長崎辺、東海道、小田原辺、近国に而は豊岡等流行いたし一日或は半日位に而死候由豊岡等は十日程之間に百五十人斗も死候由之噂也、当所に而も、、両人、、死候【宮津山王社家日記】通り町葬禮百人余通リ候由、未病人減せす【齊藤月岑日記】【江戸】上方筋諸国ころりと申病気流行致風分御座候ニ付大般若経祈祷候段申出候ニ付西願寺へ相頼出来申候【村諸日記】【伊予市】
安政五年 8月27日 10月3日 放生津等ニ変流行多分即死の様子、、異国船の所為ニ候哉【応響雑記】【氷見】?    当八月上旬より関東ニて狐風又は三日風とも云やまい大きニ流行同下旬半田辺ニも大大きニ流行、此時関東ニて薬用ひ候へば夫より人死ス 右之薬法、、【梶川嘉市日記)【碧南市】
安政五年 8月28日 10月4日 三日ころり、、江戸ニも三百人余死候、、金沢辺もおいおい流行、本吉抔ハ毎日十人余充死、、きらず(豆腐から)汁ニ梅干し一ツ入テ喰ス、甚心易事ニ而此流行病を遁レ候由【応響雑記】【氷見】
安政五年 8月29日 10月5日 殿様昨夕方より少々御吐瀉、、今朝ハ大分被遊御相応、、【浦日記】【萩】
安政五年 8月30日 10月6日 トンコロリ、、浦戸辺迄来れりとて、、此頃異国ノ軍艦来るナドと流言し、米穀ハ高直ニ成り、トンコロリハはやる也【真覚寺日記】【土佐市】生肴を喰ハ死スと言て肴を不喰、色々施薬有之且又焼酒を呑ハ病不発と言【高木在中日記】【京都】疫をはらふ為所々に神輿、獅子頭等をわたくしに持出、町々を渡す【齊藤月岑日記】【江戸】稀成悪病流行いたし、、八王子等ニも少々ツツ有之様子【尾崎日記】【八王子】
安政五年 9月1日 10月7日 妖病流行、、張置てよし其文字ニ日  蘇民将来子孫 、、右五字、、疫病除の第一の防ぎ【晴雨日記調】【大津】七月廿七日より八月晦日迄、流行病にて死人寺院より付出左之通、、一、徳隣寺 拾人内四人女、、以上五百人、内百九十八人女【浦日記】【萩】
安政五年 9月2日 10月8日 梁川星巌(70)コレラで没【再現日本史】京市中流行病ニ而死人多分有之【高木在中日記】【京都】
安政五年 9月3日 10月9日 近頃三都共異病流行に付品々の薬方或はまじないつ守護御神名薬方左ニ  奥洲仙台岩沼 武隈太明神宿  又日  釣船清次宿  又、、【晴雨日記調】【大津】所々神輿、獅子頭等出す、神社よりハ借さず、仏師或ハぬしやニ而借りる也【齊藤月岑日記】【江戸】当時江戸流行病ニ而死去、町内近所迄見舞延引いたし、我ら方ニ而も当日見舞差扣へ申候、、江戸市中壱日ニ凡弐千人ツツも死去之由【大沼日記】【駒ケ根市】守護神、、奥州仙台岩沼、武腰大明神宿【晴雨日記調】【舟木】
安政五年 9月4日 10月10日 梁川星巌(70)没。右異病ハ三四十ねんめに一度ヅツ流行するよし【晴雨日記調】【大津】九月四日比よりコロリと申す病気大流行、直ニ病死也、長崎より初メ大坂江戸別而多シ、当四国ハ高松城下始リ一日ニ弐百人程ツツ死ス、未当所ニ而少々御座候、、あらかじめ是をふせぐに都而身を冷すことなく、腹には木綿を巻き大酒、大食を慎ミ其外こなれ難き食物一切給申間敷候、若此症催候ハハ早々寝床入飲食を慎ミ惣身温め、、まじないのうた      梅か香は 其木ばかりに香りして 余の木のえだに うつる かもなし       天がした 神のみすゑの 国なれば 光れるふしの さわりもあらまじ【塩屋記録】【伊予市】 
安政五年 9月7日 10月13日 異病除の薬方、、触之、、【晴雨日記調】【大津】
安政五年 9月8日 10月14日 此節至テ流行ニて萩ニて九百五十八人死去之由【久保松太郎日記】【萩】
安政五年 9月9日 10月15日 御停止中候へ共、町々軒ちやうちん疫除の為私につるす【齊藤月岑日記】【江戸】
安政五年 9月12日 10月18日 江戸表流行病今以退散不致、此節房総辺より日光道中草賀越谷辺江戸海道ハ取手迄有之候よし【大高氏記録】【水戸】
安政五年 9月13日 10月19日 三人五人集りたる所ニトンコロリノ咄しなくハなし【真覚寺日記】【土佐市】
安政五年 9月14日 10月20日 、異病流行の沙汰今甚敷といへども京阪など大分静に相成候よしまた江戸又東海道筋なども大いに打止ミ候よし【晴雨日記調】【八幡】
安政五年 9月16日 10月22日 江戸、、悪病流行、、【萬日記抄】【三戸】下町辺えハころり参候由【大高氏記録】【水戸】
安政五年 9月19日 10月25日 江戸表流行病此節退散致候由、続而郷中より人出市中群集致候【大高氏記録】【水戸】
安政五年 9月20日 10月26日 高知、、トンコロリにて死去ノ男女九拾五人、今病中の者八拾三人有由【真覚寺日記】【土佐市】
安政五年 9月21日 10月27日 商ひ向古今不景気【大高氏記録】【水戸】
安政五年 9月24日 10月30日 流行暴瀉ニ而死去、、年久しき俳諧親友はかなき次第【応響雑記】【氷見】
安政五年 9月25日 10月31日 暴瀉病よほと流行【応響雑記】【氷見】
安政五年 9月27日 11月2日 流行病大方止む【齊藤月岑日記】【江戸】
安政五年 9月29日 11月4日 此節迄ニ流行病にて町中ニ七拾人余病死仕候由、別而湊町ハ多く死し候と申事【応響雑記】【氷見】
安政五年 9月30日 11月5日 江戸表も流行病よほと薄ク相成候よし【大高氏記録】【水戸】
安政五年 10月2日 11月7日 九月朔日より同廿四日之分、寺院より附出左之通、、一、八人 内女三人 端坊、、〆三百三拾五人 内男百九十人、女百四拾五人【浦日記】【萩】
安政五年 10月8日 11月13日 江戸表ニて芳潟病ト申疫病流行致人四十何万人程病死の由、依之殿様ヨリ右疫病治療の法書御下シ、御郡中御触出被仰付候、大行院へ御祈祷被仰付家別切札引渡ニ相成申候【永宝日記】【鯵ヶ沢】
安政五年 10月11日 11月16日 甲州一めん小唄流行       よさこいよさこい   此歌流行ニ付、当病も流行致スならんと、甲州市川其外村々名主より此唄を禁じ候よし【袖日記】【富士宮】
安政五年 10月15日 11月20日 当八月中ころり病にて死候名家、  俳諧、過日庵祖郷 書家、市川米庵 名妓、稲本楼小稲  狂句、緑亭川柳  景画、一立斎広重 狂歌、燕栗園千寿  著述、柳下亭種貞  軍談、一龍斎貞山  俳諧、猩庵西馬  書家、大竹蒋塘  画家、英一笑  狂歌、六朶園二葉  戯作、楽亭西馬  落話、鈴々舎馬風  俳優、嵐小六  音曲、竹本児玉太夫  画工、立川国郷  音曲、天狗連魚辰  音曲、常磐津須磨太夫  、、、他多数【大高氏記録】【水戸】
安政五年 10月25日 11月30日 流行病此頃は相止む当町中に而死候者凡三十人斗也江戸は殊之外流行候而寺院より書上候書付日数五十五日之間十人以上葬候数四十壱万八千百六十七人余古今未曾有之候事也【宮津山王社家日記】
安政五年 10月29日 12月4日 八月より諸国一般、、流行、、頓コレラ【大変略記】【福島濱】当年流行病市中死亡之分、惣括り付出左之通、、流行病ニて死去仕候者、惣町人数高三百四拾弐人、内弐拾九人支配違之者、一同快気仕候者惣町人数高四百八人、、一、当年流行病諸郡死亡之分、惣括り付出左之通、、川島庄 男三拾壱人、女拾四人、、惣合、千五百九拾八人、内男千拾五人、女五百八拾三人 以上【浦日記】【萩】
安政五年 11月1日 12月5日 山王下参籠流行病之願済也【宮津山王社家日記】


総括してみますと、安政五年のコレラは、旧暦6月頃より長崎付近から始まり、10月頃までで収束したようです。
江戸の流行は、七月頃より始まり、九月末ごろで終わったようです。

概ね三か月ですが、翌六年には変異したと思われるコレラが再び流行します。
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大山鳴動してマスク2枚

2020-04-02 22:01:01 | Weblog
 一人10万円づつ貰えるかと思いましたが、
マスク2枚とは、恐れ入りました。
 ヘヘ~っ
 がへ~ 


画餅と思っていましたら、
なんと、十万円貰えそうです。
マスクはやはり小さくて使いにくいです。
マスクはやめて、十万円に500円足してもらえれば
良かったです。
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コロナコロナ とばかりに 商人首くくり

2020-03-15 10:53:45 | Weblog
安政のコレラ流行の時の句
「コレラコレラ とばかりに 死人焼き場まち」の焼き直しです。
もちろん、本歌は安原貞室の
「これはこれはと ばかり 花の吉野山」です。

不謹慎な句のようにも見えますが、句の作者もいつコレラにかかるか
不安な一人だったのだと思います。
土佐の真覚寺日記の作者は、コレラの恐怖を
「病か世界を廻りて人を殺して通る様に思ひ」と書いています。

しかし、つらい現実を笑い飛ばして図太く生きようとする、したたかさが
感じられます。

いざ、当事者になった時には、蜀山人の句があります。
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」

江戸の文化人は中々骨太の方が多いですね。
さて、マスクと手洗いを忘れずに。
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松前みやげ 松前の栄華 その1 (津軽海峡渡海、異国船通過、松前藩門閥と藩風)

2020-03-07 16:35:11 | Weblog
(津軽海峡渡海、松前着)


爰ニテ東風ヲ長待
唄コモナクテ徒然なサ     四月三日ハ順風テ
御紋ノ御籏ノ船ニ乗リ     海上凡十ト二里
此間ニハ三汐アリテ      先ツ立鼻ヘハ三里也
中ノ汐ヘハ七里ニテ      汐差浪ハ山ヲナシ
白神迄ハ二里ニシテ      爰迄難渋ト申也
白神通レハ浪モ        左程ニ高カラス
塩越間ニソ着シケル     
 

松前の栄華 その1  (福山城と松前藩門閥、異国船到来と藩風)

船ノ中ニテ福山ノ
城ヲ詠メシ其気色       隅々櫓三階四階
石垣高クタタミ上ケ      煉塀鯱銅瓦
西方浄土カ竜宮カ       城内廣シト見ヘナヱトモ
栄耀極メシ御構        流石ノ松前福山城
續テ町家ノ家庫造       飾リ盡セシ奇麗サニ
目ヲ驚シテ上陸シ       勢ハ増慶ノ御堅メ
我コソ秋田ノ何某ト      名乗ラヌ斗ノ勢ヒニ
今コソ上陸在ト        恐レテ町家老若男女
郡集ヲナシテ□伏ス      見物有シ其中ヲ
行道狭シト歩ミ行       名々得送見供立迄
次第順席行烈正シ       威儀堂々ト通リケル
宿ハ青龍山専念寺       一向寺日々佛参郡集スル



此地ザンジノ逗留中      異国之船モ日々通リ
見ル度合図ノ陣太鼓      打モ合図ニ諸役人
御家老始御足軽迄       兼テ奢ノ場所ナレバ
シタ着小鐙陣羽織       役ノ軽重高下ニヨリ
馬上モアレバサマサマニ    花ヤガナリシ装束テ
御城ヤ臺場ニカゲ付様ハ    亦一入ノ見物也
扨亦御城主ニハ        松前伊豆守様
朝散太夫           素無高ニテ蝦夷地
一圓今ハ蝦夷地ヲ       御引キ上ケ
東木古内西乙部        跡ハ残ラス御代領
尾花沢ニテ三万石       御替地ニハナリヌレト
容易ナラサル御損也      松前苗字名乗ル人
松前居座輪ハ国主ノ      叔父五百石ノ禄ニシテ
其弟ニハ松前内蔵       是モ同五百石
松前内記ハ四百石       松前蔵人五百石
松前監物五百石        當時ノ御家老
下国豊前           柿崎将監
下国図書、鈴木文五郎     松前蔵人加談ナリ
御祈祷所ハ阿雲寺テ      法憧禅寺ハ御菩提処
昔シノ菩提所松前山      法源禅寺ト申也
御家中ノ禄高給金テ      百石トレハ廿両
大寄合ニ陣寄合        中書院ヨリ中ノ間ニ
御先手御徒御足軽       御家中凡一千人
此国奢ノ重畳ニテ       全躰花風ニ身ヲ拵エ
如何ナル者モ糸縅ノ      衣服着サヌモノハナシ

と言う感じです。
まだまだ先は長いです。

ところで、津軽は暗くさびしく、北海道は明るく活気がある
ように作者は書いています。

良い悪いはともかく、そのいような感覚が私にもあります。
読んでいて、高木恭造の陽コあだネ村を思い出してしまいました。
どこか、強烈な詩です。 ご参考にどうぞ


陽コあだネ村

――津軽半島袰月村で――
この村サ一度だて
陽コあだたごとあるガジャ
家の土臺コァみんな潮虫ネ噛れでまてナ
後ア塞がた高ゲ山ネかて潰されで
海サのめくるえンたでバナ
見ナガ
あの向の陽コあだてる松前の山コ
あの綺麗だだ光コア一度だて
俺等の村サあだだごとアあるガジャ
みんな貧ボ臭せくてナ
生臭せ体コしてナ
若者等ァみんな他處サ逃げでまて
頭サ若布コ生えだえンた
爺媼ばりウヂャウヂャてナ
ああ  あの沖バ跳る海豚だえンた忰等ァ
何處サ行たやだバ
路傍ネ捨られでらのァみんな昔の貝殻だネ
魚の骨コァ腐たて一本の樹コネだてなるやだナ
朝も晝モだンだ濃霧ばりかがて
晩ネなれば沖で亡者泣いでセ


  




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松前みやげ 津軽藩領縦断編(碇ヶ関~三厩)

2020-02-01 13:15:40 | Weblog
松前みやげ 碇ヶ関~三厩

湯沢を出立した、松高梅治ほか35名は、秋田領から津軽領に
入ります。



登リハ一リト半ニシテ    下リハ津軽領地ニテ
爰モ同一リ半ン       碇ヶ関番所ニテ
秋田ノ藩中何ノ某      在用テ通ルト断テ
行道狭シト打通リ      爰ニテ一夜ノ泊リ也
此村浦ニ出湯アリ      爰より城下え六里余
其日ハ野辺テ昼ツカエ    行ケハ桐ナク倉館村テ
爰ノ村ニモ出湯アリ     入湯人モ数見得ル
詠テ城下え着シケル     宿ノ亭主ハ土屋清助
弘前公ハ越中守様      四位従侍テ十万石
城下ノ家数一万軒      四方ノ山ハ遠クシテ
岩城山ヘハ三里ナリ     奥州富士ト唱リ也
翌日爰ハ五ツ立       詠々テ歩ミ行



浪岡村ニテ昼ニシテ     油川町ニテ一宿致シ
亭主ハ内村三太郎      此町屋モ不足ナシ
城下よりノ道法ハ      爰町迄七里余
此日夜ノ四ツ頃ニ      大地震ハ寄リ来リ
既ニ外面へ走リラント    思門ニソ鎮リケル
此町浦大海ニテ       漁船多ク往来シ
翌日爰ハ五ツノ立テ     爰より三厩湊マテ
道法り凡十里程       是ヨリ行道濱通り
此日類ナキ天気ニテ     道中色々岩モアリ
退屈ナクゾ歩ミ行      蟹田村ニテ昼ニシテ
帝主ハ米屋         善三郎
此村端レニ川橋有      野田村ニテ一宿致シ
宿ノ帝主ハ甚三郎      翌日爰モ五ツ立
五里程歩メハ平館      此村端レ左リノ山手ニ



矢行ヲ構ヘ爰ハ       津軽ノ御陣屋御備臺
行ケバ母衣目村ニシテ    爰ニテ昼飯イタス也
爰より三厩湊まて      道法凡二里程ト
昼ハ乱風吹来テ       村共申ニハ中々容易ナラスト云
歩ミモナラヌト云程ノ    乱風ナレ共御陣ノカタメ
風ヲヒシイテ歩行      間イナグ三厩着トナリ
宿ハ淡路屋忠兵衛ニテ    爰ノ宿屋ニ三十五人
群集ヲナシテ泊ル也     音ニ聞シ三厩トハ
案ニ相違ノ湊ニテ       商船ハ一圓ニナシ
青森南部ヘ往来船       此間ニ操テ風待斗リ
魚類ハ不多家数モ又□     後ノ山手ニ陣屋アリ
此ニ一丁隔リテ        竜馬山トテ御坂アリ
高サ四丈ノ大岩アリ      横ニ半丁厚サハ一間
立タル様ハ屏風ノゴトク    是ニ大穴三ツアリ



昔シ義経馬繋キ        それを名付テ此所
三厩湊ト申也         

□は読めないところです。危ないところもあります。
分かる方は、ご教示宜しくお願いします。

写真を見ても分かる通り、読みやすい文書ですが、読み切るのは
難しいです。
いままで、たくさんの刊本を利用させていただきました。
改めまして、古文書を解読されて刊本にした、皆さまに尊敬と感謝を申し上げます。

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松前美屋景 秋田出立編

2020-01-12 21:32:34 | Weblog
手元に、秋田から松前経由で増毛陣屋に行き、異国警備についた
秋田藩の松高梅治と言う人が書いた小冊子があります。
中身は七五調を基本とした整った道中記です。
表紙には 安政丙辰とし 松前□□□ 松高氏とあります。

松前□□□ が分からなかつたのですが、素直に 松前美屋景で「松前 みやげ」と読むのではないかと思います。
内容が良く纏っていますので、この際全文を御紹介しようと思います。
長文ですので、今回は出立の部分を紹介いたします。


安政三ノ丙辰      如月廿四日ヨル五ツ時
蝦夷地出発三十     五人命セラレ
翌月十四日在所     出足横手着ク
宿ハ翌日未明ノ出足テ  大曲村ニテ昼ニシテ
刈和野村ニテ一宿致シ  爰ノ宿屋ハ与右エ門テ
翌日未明の出立テ    和田村ニテハ昼ニシテ
久保田ニコソハ着シケル 宿ハ扇ノ町ノ
幸野や治右エ門デ    爰ニテ二日逗留イダシ
十九日ハ久府出足    湊町ニテ昼致シ
宿ハ三浦や甚太郎    久府より是迄二里ト半
蛇川村ニテ一宿イタシ  道法り是迄四りト半
宿ハ伊藤八太郎     翌日爰ハ未明立テ
道中処々ノ名景ハ    三鞍ケ鼻ニ茶屋一宇
眼下ノ小山ハ緑り松   其梺より八郎カダ
長サ七里ニ幅ハ四リ    日々漁船之往来シ
潟ノ向ニ男鹿山ノ     遥ニ見エシ其景色キ
東海道ニ有ルナラバ    六十余州ノ名景トモ
津々浦迄聞エナン     鹿渡村ニテ昼ニシテ
鶴形村ニテ一宿致シ    宿ハ小林甚之助
蛇川村ヨリ是迄ハ     道法十ト壱里也
翌日此村未明立チ     切石渡リニ荷上ケ場ノ
渡リハ一里テ幅廣ク    水色済テ青々ト
流ルル川ノ両岸ハ     右ニ青山高クシテ
左リノ岸ハ数丈巌     嵯峨屈曲ノ岩間ニハ
生靡キタル緑リ松     画ニモ覚ヌ気色ナリ
右荷上場村ニテ昼シテ   綴子村ニテ一宿イタシ
荷上ケ場村より是迄ノ   道法リ四里廿丁余
翌日此村未明立チ     大舘町ニテ昼ニシテ
長走リ村ニハ御番所有   爰ハ津軽ト御国界
四十八沢ノイロハ川    見渡ス山ハ手立峠


そこで、松高梅治も、いよいよ津軽入りいたします。
読んでみますと恰好の旅案内になっています。時間と金が有れば後を辿りたいものです。

さて湯沢から津軽領までも結構長かったですが、 松前美屋景 はこれからです。
                       夜露死苦


コメント

仙台カラスに 棚倉ササハ ナケリャ官軍 ネテクラス

2019-11-09 10:41:53 | Weblog
 怠惰にしていましたところ、また広告が出てしまいました。

今は、東大資料編纂所で公開しています「石母田 頼至日記」からデ-タを取っております。
慶応四年の仙台藩重臣も日記ですので、色々面白いことが書いてあります。

その一つに、題の俗謡が書かれていました。
通常には「細谷からすと 十六ささげ なけりゃ官軍高枕」と流布しています。

細谷からすとは、言うまでもなく細谷十太夫の「からす組」で、ならず者の集団でゲリラを行い
官軍を苦しめたとされています。
十六ささげは、棚倉藩の十六人の勇士だとか、遊女が袖につけた鳴り物だとか言うのを聞いたことがあります。

この俗謡で「十六ささげ」の意味ははっきり分かっていないようです。
では「石母田 頼至日記」のなかの「棚倉ササハ」とは何でしょうか。
おそらく同じものを意味するのかも知れません。
棚倉藩の笹葉隊や笹の旗印などと検索して見ましたが、分かりません。
どなやか棚倉ササハの意味が分かる方ご教示ください。



追伸、「石母田 頼至日記」には、細谷十太夫のことが色々書かれています。十太夫は農兵隊長と書かれています。
また、河原で細谷隊の調練が行われ、重臣が視察したこと、また仙台藩の正規部隊四番隊の前方に位置して戦ったこと
などが書かれています。
そうして見ますと、「カラス組」はならず者のゲリラ部隊ではなく、調練された農兵部隊だったような気もします。

これは全くの想像ですが、カラス組の創設に関わったと思われます、佐藤百助と言う人がおり、この人が高杉晋作を知っていたかも
知れません。してみますと、長州の奇兵隊のイメ-ジがカラス組には合うのかもしれません。
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