幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

幕末の天気 リクエストにお答えします。

2010-12-18 19:32:55 | Weblog
 天保12年の「霊憲侯簿」「を読んでいましたら、

朝に摂氏マイナス7度の日が二日続いていました。

その日の記事に「上野寛永寺の大仏のみくしが落ちる」と書いてありました。

さだめし、寒冷のため金銅が収縮して亀裂が走り頭部が落ちたのかと思いました。

気温のグラフまで作って悦に入っておりましたら

「月岑日記」に火事で焼け落ちたと書いてありました。



未熟でありました。



話は変わりますが、入力する日記が手元になくなりました。

そこで、幕末の天気リクエスト頂ければ、知っている範囲でお答えいたします。

但し、先着3名様、お一人一回に限ります。コメントに天気が知りたい年月日と時間、場所を書き込んで下さい。

日本で、天保2年から明治5年までの間でリクエスト下さい。

ご先祖様の命日でも、庚申碑建立の日でも何でも結構です。

時間はかかるかも知れませんがお答えします。(北海道、沖縄、または広域や長期に渡るものはは出来ない場合があります)

奮って応募ください。 



と言っても、おそらくリクエストはないかも知れませぬなあ。     



コメント (6)
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寒暖計の日

2010-12-05 18:06:46 | Weblog
柴田方庵と云う人がいます。
常陸の人で「柴田方庵日録」を書いています
ちなみに種痘で有名です。

お天気デ-タを取り込んでおりましたら「寒暖昇降」(寒暖計)
製作の記事がありました。

記事を抜書きしてみますと、
 江戸で
 天保十年二月二十九日 徳川斉昭卿に「御通懸ケ御目見へ」
     三月二日   御用人 鵜殿平七殿より急な呼び出しがあり、
            「種痘法、晴雨昇降、寒暖昇降」について訊かれる。

小石川の水戸邸で徳川斉昭から御用人を通して晴雨昇降(気圧計)、寒暖昇降(気温計)
について訊かれたことが書かれています。
すでに、晴雨昇降(気圧計)、寒暖昇降(気温計)の作成を志していたのでしょうか。

ついで、弘化二年六月廿七日、「晴、酷暑、寒熱昇降九十度(摂氏32.2度)ニイタル」
とあります。

舶来か自分で作成したのかは分かりませんが、方庵は寒暖昇降を持っています。

嘉永元年十二月十四日 「七ツ頃拝診之節、寒暖昇降造作之義被仰付、早速玉屋江管可申付事」
       十五日 「十四日被仰付候寒暖昇降管、鑑屋町玉屋江十本申付候、四五日之内製作
            可差上約定」
       十九日 「寒暖昇降十五本出来」

嘉永二年正月六日 「明七日、午後より寒暖昇降製作之為、罷出候様、和仁氏より書状
          四?拵?付置候昇降器十五本今日差上候」
      七日 「九ツ半頃より寒暖昇降製造之為、御上江罷出日暮頃帰宅」
      八日 「九ツ半頃より寒暖昇降製造ニ御、御上江罷出、六ツ過頃帰宅」
    二月三日 「八ツ頃より御上江出、寒暖昇降製作、日暮頃帰宅、右昇降器四本御預り帰る」
    二月十六日「昇降器製作、初中点六拾度ヲ定ム」
    二月廿四日「寒暖昇降製成就」

とあります。
この記事は長崎での記事で、拝診したのは 長崎奉行 井戸対馬守様ですので、長崎奉行の井戸様
の依頼で寒暖昇降を製作したことがわかります。

 先ず、命令を受けて、玉屋に五日で、昇降管を作らせています。
玉屋はビ-ドロ屋だったのでしょうか。
ともあれ、次の年の一月七日から、長崎奉行所に行き作製に取り掛かっていますが、
能率が悪かったのでしょうか、二月三日からは、自宅で製作にあたっています。

試行錯誤があったのでしょう、約一ヶ月半後に「寒暖昇降製成就」しています。

柴田方庵はこの他に、兵糧としてのビスケットの製法を水戸藩に書き送っています。
この日を「ビスケット」の日と定めているようです。

としますと、

二月二十四日は「寒暖計の日」と致しましょう。     




何気なく、ぶら下がっている寒暖計に感謝したします。
コメント (3)
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