幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

日記と日記で こんにちわ  四谷萬三郎

2016-05-05 14:30:07 | Weblog
手元に小ぶりですが、立派な装填の日記があります。



めくって見ますと、儒者の修行日記のようで、延岡から
江戸まで約二年にわたり各地の儒者を訪ねています。

名前は書いておらず、作者は分かりません。

ただ、竹内豊洲、や森謙蔵など有名な儒者を訪ねており
相当な人物のものではないかと思いました。
そこで、日記の中に作者の手掛かりがないか探してみました。

作者は、安政五年二月十二日 萩城下に入っています。
吉田寅治郎の名前が出てきましたので、うまくすると松陰の日記に名前
が出てくるのではないかと期待しましたが、松陰は入獄中で日記はありませんでした。

捨てる神あれば拾う神あり、などと申しますが、



作者の日記に日田の碩学、広瀬旭荘が萩城下に滞在しており、二月十五日の夕方対面したと書いております。

しめたものです。

広瀬旭荘は膨大な日記を残しており、刊本になっていて、私も幸い持っていました。



旭荘の日記には、二月十五日に延岡の人「四谷萬三郎」に会い芸備播摂の人物を話し、

萬三郎が筆を借りて記録したとあります。

この記事から、作者不明の日記は「四谷萬三郎」の日記であることは間違いありません。

検索をして見ましたところ、四谷萬三郎はなく、延岡の儒者「四谷恒之」が出て参りました。



四谷恒之は日向の人で、字は子固、号を穂峰と称し、

藩校文学寮に学んだ後、江戸の昌平

嚳に入って塩谷宕陰に、次いで森田節斎に学び、延岡藩に

仕えて世子の侍読を務め、維新後は太政官歴史課編修官・

元老院書記官・東京帝大講師等を歴任した儒者


だそうです。

時代と人物から言って 萬三郎が恒之であった可能性は高いと思われます。


四谷萬三郎恒之 だとしますと、この日記は「博物館もの」でしょうか。

いやいや、この頃の薄っぺらな時代では「鳥またぎ」でございましょうな~
コメント (3)
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