手元に小ぶりですが、立派な装填の日記があります。
めくって見ますと、儒者の修行日記のようで、延岡から
江戸まで約二年にわたり各地の儒者を訪ねています。
名前は書いておらず、作者は分かりません。
ただ、竹内豊洲、や森謙蔵など有名な儒者を訪ねており
相当な人物のものではないかと思いました。
そこで、日記の中に作者の手掛かりがないか探してみました。
作者は、安政五年二月十二日 萩城下に入っています。
吉田寅治郎の名前が出てきましたので、うまくすると松陰の日記に名前
が出てくるのではないかと期待しましたが、松陰は入獄中で日記はありませんでした。
捨てる神あれば拾う神あり、などと申しますが、
作者の日記に日田の碩学、広瀬旭荘が萩城下に滞在しており、二月十五日の夕方対面したと書いております。
しめたものです。
広瀬旭荘は膨大な日記を残しており、刊本になっていて、私も幸い持っていました。
旭荘の日記には、二月十五日に延岡の人「四谷萬三郎」に会い芸備播摂の人物を話し、
萬三郎が筆を借りて記録したとあります。
この記事から、作者不明の日記は「四谷萬三郎」の日記であることは間違いありません。
検索をして見ましたところ、四谷萬三郎はなく、延岡の儒者「四谷恒之」が出て参りました。
四谷恒之は日向の人で、字は子固、号を穂峰と称し、
藩校文学寮に学んだ後、江戸の昌平
嚳に入って塩谷宕陰に、次いで森田節斎に学び、延岡藩に
仕えて世子の侍読を務め、維新後は太政官歴史課編修官・
元老院書記官・東京帝大講師等を歴任した儒者
だそうです。
時代と人物から言って 萬三郎が恒之であった可能性は高いと思われます。
四谷萬三郎恒之 だとしますと、この日記は「博物館もの」でしょうか。
いやいや、この頃の薄っぺらな時代では「鳥またぎ」でございましょうな~
めくって見ますと、儒者の修行日記のようで、延岡から
江戸まで約二年にわたり各地の儒者を訪ねています。
名前は書いておらず、作者は分かりません。
ただ、竹内豊洲、や森謙蔵など有名な儒者を訪ねており
相当な人物のものではないかと思いました。
そこで、日記の中に作者の手掛かりがないか探してみました。
作者は、安政五年二月十二日 萩城下に入っています。
吉田寅治郎の名前が出てきましたので、うまくすると松陰の日記に名前
が出てくるのではないかと期待しましたが、松陰は入獄中で日記はありませんでした。
捨てる神あれば拾う神あり、などと申しますが、
作者の日記に日田の碩学、広瀬旭荘が萩城下に滞在しており、二月十五日の夕方対面したと書いております。
しめたものです。
広瀬旭荘は膨大な日記を残しており、刊本になっていて、私も幸い持っていました。
旭荘の日記には、二月十五日に延岡の人「四谷萬三郎」に会い芸備播摂の人物を話し、
萬三郎が筆を借りて記録したとあります。
この記事から、作者不明の日記は「四谷萬三郎」の日記であることは間違いありません。
検索をして見ましたところ、四谷萬三郎はなく、延岡の儒者「四谷恒之」が出て参りました。
四谷恒之は日向の人で、字は子固、号を穂峰と称し、
藩校文学寮に学んだ後、江戸の昌平
嚳に入って塩谷宕陰に、次いで森田節斎に学び、延岡藩に
仕えて世子の侍読を務め、維新後は太政官歴史課編修官・
元老院書記官・東京帝大講師等を歴任した儒者
だそうです。
時代と人物から言って 萬三郎が恒之であった可能性は高いと思われます。
四谷萬三郎恒之 だとしますと、この日記は「博物館もの」でしょうか。
いやいや、この頃の薄っぺらな時代では「鳥またぎ」でございましょうな~