幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

ペリー来航 鷲頓死 アメリカ毛虫

2010-01-30 18:40:21 | Weblog
ペリー来航時の天気は猛暑、大ひでりだったことは前に書きましたので、
今回は、【片葉雑記】と言う日記に描かれてた、黒船来航時の世相を紹介しましょう。
原文のままで、じっくりお楽しみ下さい。

鷲死、、先月下旬、御家人羽根田御台場にて大筒けいこ打し処、筒先にいづくよりか鷲壱羽飛來て打落されき、忽捕へて公儀へ献上す。
来る敵はワシントンなれば尤吉兆かと云々、、唐舟が 来てもおかみに つつがなし【片葉雑記】【土浦】



甘過て 太平糖も武士の毒 あめときせんで 御目をを御さまし【片葉雑記】【土浦】



毛唐人 はやく帰って よかったね また来るまでは ちょっとおあいだ

やくそくの 早半鐘を止にして 芝は大かね 上のじゃんじゃん

陣羽織 一寸異国であらひはり 表はよいが うらが大変【片葉雑記】【土浦】



江戸町人いづれも商内取引は先無し金子まとめ候工風のみ也【片葉雑記】【土浦】



江戸市中十一月十五日帯解き髪おき等の祝儀一切有ことなし【片葉雑記】【土浦】



シヤム鶏なべと云物はやる【片葉雑記】【土浦】



本牧辺に居る夷船より大砲をためし候由を申出ししきりに海に向て空砲数十発、、神奈川品川江戸大騒動なりしと云々【片葉雑記】【土浦】

夏より秋にわたりて毛虫生じたりし事、、いたこ辺、、家のぢぢはことし八十七歳になるが、此事は覚へずといへりと云々、彼村のあたりにてはアメリカ毛むしと名づけいふといへり【片葉雑記】【土浦】

この外にも、黒船との一戦を見越して煙硝を買占めたのですが、戦いにならなかったため倒産した商人の話とかもありました。
沢山の人々が日記に取り上げています。
いづれも、蜂の巣を突いたような騒ぎです。


いにしへの もふこの時と あべこべで 
           ちつとも吹かぬ 伊勢の守かぜ【植松家日記】【沼津】



皆さん、うまいものですね。

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龍馬、千葉道場に入門  嘉永六年三月七日(西暦1853年4月24日)

2010-01-23 18:58:59 | Weblog
 はっきりは分かりませんが、坂本龍馬が江戸の千葉道場に
入門したのは、嘉永六年三月七日(西暦1853年4月24日)のようです。

西暦の4月と言えば桜の盛りです。
嘉永六年はどうだったのでしょうか、静岡県沼津市蔵場の桜は4月7日に満開、京都嵐山の桜は
4月12日に満開、現在の平年値で京都より3日早い江戸の桜は4月9日頃が満開だったと思われます。

当日の江戸の天気は
昨日より小雨午前止午後晴【江戸】
      雨夕晴【江戸麻布】
      小雨、夕晴天【江戸】
とありますように、前の日から、七日午前中までは小雨、午後から晴れて夕方には晴天となっているようです。
龍馬が入門した時間までは分かりませんが、午前中に入門したとすれば葉桜が小雨にぬれる風情だったと思いますし、午後から夕方でしたら咲き残った花に雨のしずくが光っていたことでしょう。

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岩崎弥太郎、背広を着る 慶応三年四月二十七日(西暦1867年5月30日)

2010-01-16 15:35:42 | Weblog
 三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎氏は「龍馬伝」では、今のところボロボロの着物に、山のように虫かごを背負ったカタツムリのような姿で登場しています。
本当にあんな滑稽な格好だったのかどうかは分かりませんが、地下浪人の生活が苦しかったことは十分伝わってきます。
勿論、天下の岩崎弥太郎です、着物も段々良くなっていったことだと思います。
 そこで、今回は岩崎の服装について調べてみました。
岩崎弥太郎は日記を付けています、長崎滞在中の日記を【瓊浦日歴】と言います。この日記の慶応三年四月二十六日の記事に、商談(ひそかに朝鮮貿易を談ず)の帰り「異人の店に入り、襟並襟結を買う、代四円一歩」とあります。「襟並襟結」というのは、背広のことのようですが自信はありません。
ただ、翌日の日記、 慶応三年四月二十七日(西暦1867年5月30日)の冒頭に、誇らしげに「洋服を着る」とあります。
洋服の価格の、四円一分というのは、四両一分です(古手かも知れません)。今の価格にしますといくら位でしょうか。 
【あきる野市】の儀三郎日記によりますと、同年五月一日の記事に一両に白米九升とありますので、 白米にしますとおよそ、三斗八升二合五夕です。
【浜松付近】の萬日記覚によりますときじ三わ、壱両ト百文 、みかん15ケ300文とありますの で 雉にしますとおよそ12羽となります。
 みかんにしますと、銭相場、一両約8000文で計算しますとおよそ、1700個分となります。
場所や相場の関係で現在との価格比較ははとても難しいようです。一般に江戸時代は、現在より米の相場は高く人件費は安かったようです。
それでは、岩崎弥太郎氏が洋服を着て長崎の町を闊歩した時の天気を御紹介しましょう。
購入した、四月二十六日は晴と【瓊浦日歴】には書いてありますが、他の日記を見ますと       
      曇【南阿蘇村】
      雨、晴天【肝属町】
      雨、終日やます、夜中同断【土佐市】
       少々雨降ル【小郡市】
となっていまして、九州地方は天気は良くなかったようです。
翌日の四月二十六日には、
     晴【南阿蘇村】                                 
     曇、晴天【肝属町】
    
     晴【下関市】
   雨四ツ半頃より晴ル、、夜星皆顕るる【土佐市】
    天気【小郡市】
とありますように、天気は回復傾向にあったようです。
四月二十三日の夜、龍馬の乗った「いろは丸」は衝突沈没しました。弥太郎は知っていたのでしょうか、知らなかったのでしょうか。
何れ、天気の良い長崎の街を、洋服をきた岩崎弥太郎が得意げに歩いている姿が思い浮かびます。

 



 



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龍馬、佐久間象山に入門した日の天気 嘉永六年十二月一日(西暦1953年12月30日) 

2010-01-10 14:06:50 | Weblog
 大河ドラマは、龍馬が生まれた時から始まると思っていましたが、見事にはずれました。
高知県立坂本龍馬記念館の龍馬の年表「龍馬の生涯」によりますと、出生の次に年月日が確認できるのが、嘉永六年十二月一日の佐久間象山への弟子入りです。
それでは、当日の象山の居た江戸付近の天気を見てみましょう。

             晴【東郷】
             西風天気【新島】
             晴【流山】
             天気西南風【銚子】
             晴天【江戸】
             晴天【生麦】

 とあり、天気で西よりの風だったことが分かります。沼津では、「至て暖気春の如し」とありますように、全国的に穏やかな天気だったようです。
ただ、「長々日照にて大根大不足」と新潟県巻町の日記にあります。
この冬は、天気が続いたため大根は不作でした。


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