なぜ、いろは丸は遅かったのでしょうか。
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前回の書き込みで調べたところ、航海が長くなる要素は、2つあります。
一つは寄り道をする場合です。もう一つは天候や風向きが悪い場合です。
いろは丸航海日記
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には、4月19日の長崎出航後の寄港については記載がありませんから、
恐らく一路大阪方向を目指していたと思われます。
としますと、いろは丸が遅くなった理由は天候によるものと思われます。
それでは、いろは丸、航海中の長崎~大阪間の天気を、日を追って見て行きましょう。
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慶応三年四月十九日(西暦1867年5月22日)長崎出航
晴天晩ヨリ風吹【南阿蘇村】
晴【大宰府】
霽【長崎】
晴【下関】
天気【小郡】
照【広島】
晴天【池田】
となっていて、長崎出航時は晴の良い天気だったようです。
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慶応三年四月二十日
晴風強吹大風也【南阿蘇村】
霽【長崎】
晴【嬉野】
東風【下関】
曇天【広島】
晴天【池田】
晴、大風【高知市】
といった具合で、航海二日目で、それ程の天気の崩れは無かったようですが
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風が強くなってきたようです。いろは丸は小倉あたりか玄界灘あたりでしょうか。
下関の風は東風とありますので向かい風です。船は遅々としてすすまなかったかも知れません。
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慶応三年四月二十一日
曇風強吹辰時頃より雷鳴一ツ鳴雨少々降夜半過迄雨ト一同ニ大風吹風止ム【南阿蘇村】
雨、、帰途雨甚、、雨少止、、黄昏ニ近、、雨声不絶【長崎】
東風、風甚【下関】
雨降【小郡】
曇天、、未頃より雨、夜すから豪雨【広島】
半晴、大風砂を捲く、小雨ふる、、五ツ頃より大風雨、、七ツ頃風烈敷【高知市】
晴天東風強戌刻より小雨【池田市】
雨天ざぶり、四ツ時より雨上りてらてら日和、、八ツ時より風立さむし、、宵より曇り、夜大雨風荒吹、麦大に傷む【熊野市】
航海三日目のこの日は大荒れ、この日、発達した温帯低気圧が通過したようです。
紀州の熊野では、低気圧に伴う暴風雨のため麦大痛みとあります。
いろは丸は瀬戸内海に入ったでしょうか。いずれ下関付近ではないかと思われますが、下関では「東風、風甚」とありますので、向かい風が強く航海出来る状況ではなく、何処かで碇泊していた事と思われます。
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慶応三年四月二十二日
朝曇後次第ニ晴、寒ムキ事二月ノ始ノ如シ【南阿蘇村】
開霽【長崎】
晴【下関】
晴、風【広島】
雨、五ツ頃より晴ル、、夜空明也【土佐市】
小雨【稲束家日記】【池田】
航海四日目、この日朝方に、中国地方を寒冷前線が通過したと思われます。
天気の方は西の方から回復に向かいます。
いろは丸の位置ははっきりしませんが、広島で「晴、風」とありますように、この日の午前中くらいは、碇泊を余儀なくされたのではないかと思われます。
京都の日記に「陰時々小雨雲西奔東風猛烈如昨日午後晴雲南行」とありますので、瀬戸内地域でも、天気は同じように変化し、強い東風と雨の後の天気回復と北風による寒気の流入があったと考えられます。
低気圧による余波で、うねりや風も残っていて、この日の航海も大変だったに違いありません。
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慶応三年四月二十三日第十一字(西暦1867年5月26日午後十一時頃)、
晴天朝晩寒し【南阿蘇村】
霽【長崎】
晴【下関】
照【広島】
晴、72度、茄子苗を植う【丸亀市】
晴、、夜星見へる【土佐市】
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晴天【池田市】
となっていて、衝突当日は大変よい天気です。
あえて、「いろは丸」の航海日記に天気を入れるとすれば、こうなるかと思います。
4月19日「晴れ」
20日「晴れ、逆風」
21日「雨時々曇り、昼前から大風雨」
22日「朝方まで風雨、昼前から晴れ北風」
23日「晴れ」
という訳で、「いろは丸」の航海が遅くなったのは、4月21日から22日にかけて発達しながら通過した低気圧
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のせいにほぼ間違いありません。
長崎での紀州藩と土佐藩の談判のなかで、
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「いろは丸」の左右の舷灯が点いていなかった事が議論されていますが、しっかりした証人がいないとのことで、紀州藩が折れていますが本当はどうだったのでしょうか。
龍馬の油断があったのかも知れません。
左右の舷灯もつけぬ「いろは丸」がスピードを上げて夜の瀬戸内海を急いでいたように思います。
そこで、結論です。
いろは丸が明光丸に衝突した要因は、
①前日までの低気圧による風雨との闘いで、船員が疲労していたこと。
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②当日は天気がよく、つい油断が出たこと。
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③行程が遅れ、急いでいたと考えられること。
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などではなかったでしょうか。
ともあれ、ここまで推測するのは,もはや妄想と言うべきでしょうか。
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さて、次は太平洋です。