幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

太平天国、湘軍、徳川家茂上洛 土降る中を   文久三年二月十三日(西暦1863年3月31日)

2010-06-29 20:50:57 | Weblog
徳川家茂は文久三年二月十三日(西暦1863年3月31日)正午頃、上洛ため江戸城を出立いたしました。

翌日頃から、黄砂が飛来していた事は前に書きました。

さて、此の頃は中国の日記を読んでおりまして、
今は、湘軍の親分「曾国藩」の日記を読んでおります。

日記の同治二年二月十三日に「大風雨、土によって咫尺を弁ぜず、いまだ前に往くあたわず。」
とありました。
この日は、日本では文久三年二月十三日に当たり家茂が上洛の途についた日です。

また、おなじく「曾国藩」の日記には、十五日にも、「天晴、風、霾によって、全看清からず。」とあり、
ますので、二日後の十五日にも空には黄砂が舞っていたようです。

この黄砂の下で、中国では、太平天国軍と湘軍が死闘を繰り返し、
日本では、将軍徳川家茂が二百年ぶりに上洛の途につきました。



黄砂の飛来は「霾」とかいて「土ふる」の意味です。
雨の下に狸、いかにも化かされそうな感じです。

黄砂から下界をみれば、「人間界は騒々しいな、タヌキにでも化かされて居るんじゃないか。」
と思ったことでしょう。
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海援隊 いろは丸衝突の要因 その2(結論)

2010-06-13 19:01:51 | Weblog
なぜ、いろは丸は遅かったのでしょうか。
前回の書き込みで調べたところ、航海が長くなる要素は、2つあります。
一つは寄り道をする場合です。もう一つは天候や風向きが悪い場合です。

いろは丸航海日記には、4月19日の長崎出航後の寄港については記載がありませんから、
恐らく一路大阪方向を目指していたと思われます。

としますと、いろは丸が遅くなった理由は天候によるものと思われます。
それでは、いろは丸、航海中の長崎~大阪間の天気を、日を追って見て行きましょう。


慶応三年四月十九日(西暦1867年5月22日)長崎出航

晴天晩ヨリ風吹【南阿蘇村】
晴【大宰府】
霽【長崎】
晴【下関】
天気【小郡】
照【広島】
晴天【池田】
  となっていて、長崎出航時は晴の良い天気だったようです。

慶応三年四月二十日

晴風強吹大風也【南阿蘇村】
霽【長崎】
晴【嬉野】
東風【下関】
曇天【広島】
晴天【池田】
晴、大風【高知市】
  といった具合で、航海二日目で、それ程の天気の崩れは無かったようですが風が強くなってきたようです。いろは丸は小倉あたりか玄界灘あたりでしょうか。
 下関の風は東風とありますので向かい風です。船は遅々としてすすまなかったかも知れません。

慶応三年四月二十一日

曇風強吹辰時頃より雷鳴一ツ鳴雨少々降夜半過迄雨ト一同ニ大風吹風止ム【南阿蘇村】
雨、、帰途雨甚、、雨少止、、黄昏ニ近、、雨声不絶【長崎】
東風、風甚【下関】
雨降【小郡】
曇天、、未頃より雨、夜すから豪雨【広島】
半晴、大風砂を捲く、小雨ふる、、五ツ頃より大風雨、、七ツ頃風烈敷【高知市】
晴天東風強戌刻より小雨【池田市】
雨天ざぶり、四ツ時より雨上りてらてら日和、、八ツ時より風立さむし、、宵より曇り、夜大雨風荒吹、麦大に傷む【熊野市】
  航海三日目のこの日は大荒れ、この日、発達した温帯低気圧が通過したようです。
 紀州の熊野では、低気圧に伴う暴風雨のため麦大痛みとあります。
 いろは丸は瀬戸内海に入ったでしょうか。いずれ下関付近ではないかと思われますが、下関では「東風、風甚」とありますので、向かい風が強く航海出来る状況ではなく、何処かで碇泊していた事と思われます。

慶応三年四月二十二日

朝曇後次第ニ晴、寒ムキ事二月ノ始ノ如シ【南阿蘇村】
開霽【長崎】
晴【下関】
晴、風【広島】
雨、五ツ頃より晴ル、、夜空明也【土佐市】
小雨【稲束家日記】【池田】

  航海四日目、この日朝方に、中国地方を寒冷前線が通過したと思われます。
天気の方は西の方から回復に向かいます。
いろは丸の位置ははっきりしませんが、広島で「晴、風」とありますように、この日の午前中くらいは、碇泊を余儀なくされたのではないかと思われます。
京都の日記に「陰時々小雨雲西奔東風猛烈如昨日午後晴雲南行」とありますので、瀬戸内地域でも、天気は同じように変化し、強い東風と雨の後の天気回復と北風による寒気の流入があったと考えられます。
 低気圧による余波で、うねりや風も残っていて、この日の航海も大変だったに違いありません。

慶応三年四月二十三日第十一字(西暦1867年5月26日午後十一時頃)、

晴天朝晩寒し【南阿蘇村】
霽【長崎】
晴【下関】
照【広島】
晴、72度、茄子苗を植う【丸亀市】
晴、、夜星見へる【土佐市】
晴天【池田市】

 となっていて、衝突当日は大変よい天気です。

あえて、「いろは丸」の航海日記に天気を入れるとすれば、こうなるかと思います。
4月19日「晴れ」
  20日「晴れ、逆風」
  21日「雨時々曇り、昼前から大風雨」
  22日「朝方まで風雨、昼前から晴れ北風」
  23日「晴れ」
という訳で、「いろは丸」の航海が遅くなったのは、4月21日から22日にかけて発達しながら通過した低気圧のせいにほぼ間違いありません。

長崎での紀州藩と土佐藩の談判のなかで、「いろは丸」の左右の舷灯が点いていなかった事が議論されていますが、しっかりした証人がいないとのことで、紀州藩が折れていますが本当はどうだったのでしょうか。
龍馬の油断があったのかも知れません。
左右の舷灯もつけぬ「いろは丸」がスピードを上げて夜の瀬戸内海を急いでいたように思います。

そこで、結論です。

いろは丸が明光丸に衝突した要因は、
①前日までの低気圧による風雨との闘いで、船員が疲労していたこと。
②当日は天気がよく、つい油断が出たこと。
③行程が遅れ、急いでいたと考えられること。
などではなかったでしょうか。

ともあれ、ここまで推測するのは,もはや妄想と言うべきでしょうか。
さて、次は太平洋です。
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海援隊 いろは丸衝突の要因 その1

2010-06-06 13:18:02 | Weblog
前回、いろは丸衝突の夜に霧は出ていなかったよう思いますと書きましたところ、
「原因は何だったんでしょう・・?」とコメントを頂きました。
なるほど、衝突にはなにか原因があるはずです。
そこで、今回は2回にわたり、自分なりに衝突の原因を推測して見たいと思います。


いろは丸が長崎を出航したのは、慶応3年4月19日で、
鞆の浦付近で衝突したのが、同じく4月23日午後11時頃であります。
長崎港を出て、衝突地点に至まで、19、20、21、22、23、と5日かかっています。
蒸気船にしては遅すぎるような感じがしましたので、他の文献にあたってみました。

坂本龍馬関係文書によりますと、慶応二年龍馬が三邦丸に乗って鹿児島を訪れた時は、
慶応2年3月5日大坂出発、
6日夕方下関着、
8日長崎に至ル、
とありますので、大坂から長崎まで四日だったことが分ります。

岩崎弥太郎日記によりますと、
慶応3年10月18日夜12時長崎出航、
19日朝6時川内港、風のため待機、
20日夜2時下関、
21日御手洗、
22日兵庫着となっていて、出航が午後12時ですので、ほぼ、4日です。

また、この時の帰りは、
11月23夜兵庫出発、
24日志和久島(塩飽島?)、
25日福羅港(福浦港?)
26日霧のため午後出航、平戸湾口着、
27日午後2時頃長崎着で、5日です。

その他にも、岩崎弥太郎日記によれば
慶応4年2月2日4時長崎発、
3日夕方4時下関着、
4日大島郡で雨風の為待機、
5日大島発、
6日神戸着。の5日間。

明治元年11月6日大坂発、
7日三田尻、
8日小倉
とあります。
長崎兵庫間は気象条件や寄り道がなければ4日、多少の風雨があれば5日間と行った所だった様子です。

ところが、いろは丸は衝突地点までに5日かかっています。
その後、航海が順調だったとしても兵庫着まで6日間程かかったと思われます。
通常よりは、2日間程余計にかかっています。
坂本龍馬関係文書には、長崎出航の日付けしか書かれておらず、
もし龍馬の言う通り武器弾薬を満載していたならば、一路大坂に向かって急いでいたに違いありません。

不思議です。

なぜ、いろは丸は遅かったのか。
なぜ、いろは丸は衝突したのか。

推測は次回いたします。

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