幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

調所笑左衛門広郷の死因

2018-01-26 18:18:41 | Weblog
調所笑左衛門は嘉永元年十二月十八日(西暦1849年1月12日)の夜に江戸で死亡しました。

先日の大河ドラマでは、雪の舞う月夜の晩に笑左衛門は服毒死を遂げました。
ところで、薩摩藩の家老で実力NO1の調所広郷が切腹ならまだしも、服毒死などするものでしょうか。

前回ブログで紹介しました、薩摩藩重臣の鎌田正純日記の嘉永元年十二月十九日の記事には「調所笑左衛門殿、昨夜病死」とあります。
笑左衛門の健康状態について、興味深い記事がありました。長崎滞在中の水戸藩の洋学者,柴田方庵の日記の弘化四年七月十六日(西暦1847年8月26日)の記事に

薩州奥四郎殿より重役調所広郷殿容体書持参之方書並医案遣し呉候様頼ニ付、両三日後医案蔵屋敷へ遣ス

とあり、要約しますと「薩摩藩長崎聞役 奥四郎殿から家老調所広郷殿の容態を書いた書付を持ってきて、医療方法を聞いてきたので、ニ三日後に薩摩藩蔵屋敷に届けた」
とありまして、調所広郷はこの頃重篤な病にかかっていたようです。
鎌田正純が弘化四年七月八日に調所笑左衛門宅を訪ねましたが、留守で断られています。
死亡の前1年5月ほど前です。

この後、笑左衛門は公務に復帰しまして、嘉永元年八月二十一日に藩主と江戸へ向かいました。
程無く、鎌田正純も江戸へ行き、笑左衛門と何度も会っていますが、
十二月朔日の日記に「 笑左衛門殿病気ニ付右えも見廻、、八ツ後退出より調所左門殿御役替、海老原宗之進殿御役入ニ付、右え祝儀」
十二月二日に記事に「調所笑左衛門殿え病気尋として見廻」
十二月五日にも「調所笑左衛門殿え病気尋として参り」
十二月十四日「調所笑左衛門殿え病気見廻」  
十二月十五日「調所笑左衛門殿、、見廻」     
十二月十六日「調所笑左衛門殿え病気見廻」
十二月十七日「調所笑左衛門殿病気尋として見廻」
と病気見舞いを重ねた後に
十二月十九日「調所笑左衛門殿昨夜病死ニ付為悔参り、、」
と調所笑左衛門の病死が書かれています。
一年半にわたる闘病生活の後の死、最期に毒杯を飲んだかどうかは分かりませんが、調所広郷は病死と考えるのが自然な感じがします。

事実はともあれ、重税、大阪商人への事実上の借金棒引き、密貿易など、薩摩藩の財政を立て直す為に、笑左衛門はあらゆる手を使い汚れ役に徹して生きました。
世間から沢山の怨みを買った身には、自然の死ではなく服毒自殺こそが似合っていたのかも知れません。

世間は恐ろしいものですね~

世間の風は冷たく、今朝は、マイナス8度で、水道が凍ってしまいました。
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調所笑左衛門広郷の死 嘉永元年十二月十八日夜(西暦1849年1月12日)

2018-01-23 21:36:26 | Weblog
この前、大河ドラマ西郷どんを見ました。

薩摩藩の財政を立て直した、調所広郷の死をやっておりました。
竜雷太扮する広郷が、雪の舞う月夜の晩に密貿易の罪を負い服毒自殺する場面でした。

悪い癖で、天気は本当にそうなのだろうかと考えてしまいます。

まず、調所笑左衛門の亡くなった場所と日時を特定しますと、薩摩藩重臣の鎌田正純日記によれば、
弘化五年(嘉永元年)八月二十日の記事に「 調所笑左衛門殿え為餞別肴料五百疋 」とありますから、
翌日の八月二十一日に藩主と江戸へ向かったとおもわれます。     
また、嘉永元年十二月十九日の記事によれば、調所笑左衛門殿、昨夜病死【鎌田日記】【江戸】とありますから、調所笑左衛門は嘉永元年十二月十八日(西暦1849年1月12日)の夜に江戸で死亡したに相違ありません。

大河ドラマでは、月齢18日の月が忠実に表現されていましたが、はたして雪は降っていたのでしょうか。
嘉永元年十二月十八日の天気分布図は下記の通りです。



 北日本や日本海側で雪や雨となっていますが、関東はどこも晴で、十九日もあまり変化はなく、残念ながら降雪の記録はありません。
なお、気温は【霊憲候簿】によりますと、十八日の晩は約摂氏9度で十九日早朝は摂氏約1度程で晴のため放射冷却が厳しかったようです。
笑左衛門が亡くなつた夜は、真冬としては、月のある比較的穏やかな夜だったような気がします。



ところで、笑左衛門は本当に服毒したのでしょうか。
それとも、病死なのでしょうか。

次回に考えたいと思います。
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鳥羽伏見の戦い開戦時の天気(慶応四年一月三日申刻頃、西暦1868年1月27日午後4時頃)

2018-01-03 21:50:56 | Weblog
                       

            

 先日、リクエスト頂きました、鳥羽伏見の戦いの時の、天気につきまして、管見を申し述べます。

鳥羽伏見の戦い開戦時は、慶応四年一月三日申刻頃、西暦にしますと、1868年1月27日午後4時頃になります。

両軍ともに、「あり得る」とは思っていたかもしれませんが、大寒の時節の晩からの開戦とは驚きです。

寒かったでしょうね。(命のやり取りで寒さも感じなかったのかもしれませんが)


ともあれ、天気概況を申し上げますと、慶応三年十二月二十九日頃日本列島を、低気圧が通過しました。


つがる市森田の【萬覚帳】によれれば二十八日は「朝暖気也晴曇り東風少々夜曇り風なし」とあり

翌二十九日には「明ケ頃雨少々降り東風大雨降ル、夜半頃雪吹西風替り大風往来止り申候、、雪吹倒れ森田人のよし」

とありまして、前日から東風と共に暖気が入っていましたが、二十九日の朝から東風で雨がふり、夜の12時頃から西風

に変わり大吹雪となり、行倒れの人まで出たことが書かれています。

つがる市では、低気圧から延びる寒冷前線が、夜12時頃通過しまして、大吹雪となったようです。

その夜は、群馬県中之条町でも「夜雪一寸足らず積る」とあります。

強い低気圧の後は、優勢な寒気が流入して来ます。

寒気の流入は日本海に筋状の雲を発達させ、日本海側に雪を降らせます。

鯖江の【間部家御日記】によれば、

         十二月二十八日 雨
            二十九日 雪
            三十日  雪
          一月 一日  雪
             二日  雨
             三日  晴
 となっています。

水戸での気温の変化は(寒暖計ハ朝五ツ時をしるし、冬ハ其日の内の極寒き時分をしるし、夏ハ其日の内極あつき時分をしるす)



となっており、一月一日、二日と強い寒気が入ってきたことがわかります。


さて、慶応四年一月三日の天気分布をみて参りましょう



となっていまして、全国的に晴となっています。日本列島全体が、すっぽりと移動性高気圧に覆われたようです。

日中は、つがる市、銚子、新島などで弱い西風が吹き、あちこちの日記に暖和なことが記録されていて、江戸では摂氏1.7度、丸亀では、

8.9度との記事があります。(観測時間不詳)

翌、四日も日中は関東で弱い雨があったものの、温暖で穏やかな一日だったようです。(函館屋外で、摂氏3.3度)


と言いますと、鳥羽伏見の戦いは、比較的温暖ななかで、進んだと思われますが、実は恐ろしい落とし穴があります。

京都では、戦争開始の三日の夜から二日の朝にかけて、雲はあったものの、ほぼ晴天だったと考えられます。

そうしますと、放射冷却が厳しいはずです。

ちなみに、京都で晴天だった昨年(平成29年)の12月22日の午後4時の気温は摂氏10.2度、翌朝の最低気温は1度でした。

もし、同じくらい気温が低下したとしますと、氷点下だったことは、ほぼ間違いないと思います。

この日の高知県土佐市の日記には、

「晴、七ツ頃ゆる小、夜星動け共風も吹かす大ニ寒し、手水鉢ニ冰張る」とあります。


手も凍り付くような寒さの中で必死に戦った、鳥羽伏見の会津藩士の姿を、西条八十が詩で綴っています。


その夜の侍
             

 宿貸せと縁に刀を投げ出した、 ふぶきの夜のお侍。

 眉間にすごい太刀傷の、血さえかわかぬお侍。

  口数きかず大いびき、暁までねむってゆきました。

 鳥羽のいくさの すんだころ伏見街道の一軒家

  その夜、炉ばたで遊んでた子供はぼくのお祖父さん

 ふぶきする夜は しみじみと想いだしては話します

 うまく逃げたか、斬られたか。

 縁に刀を投げ出した その夜の若いお侍




 その夜は吹雪にはなりませんでしたが、流石に状況が手に取るようです。

大詩人は、上手ですねえ。

























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