幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

攘夷騒ぎに赤い太陽、赤い月

2008-09-27 20:48:40 | Weblog
 徳川家茂が、初めて上洛して二条城に入ったのが文久三年三月四日(西暦1863年4月21日)、初参内が三月七日のことであります。参内前の三月五日の午前10時頃、何故か江戸では「異国人戦争触れ有り」(儀三郎日記)、町中大騒ぎとなりました。材木や紺縞が暴落し、食料の売り手が少なくなりました。三月十六日頃になりますと、女子供を中心に江戸から避難する騒動となりました、武蔵村山の指田日記には「江戸追々混乱、御大名の奥向きを知行所にり、御旗本の老少女子を夫々に知行の寺院などへ遣わす手配あり、町方も田舎の縁を求め、荷物を運び老人を送り遣わす」同二十日「在々所々へ江戸より雑具を運び老弱を送る事、日々引き続き絶えず」と伝えています。一方京都では、三月十日「松原通下ニ首なき胴有、昨日迄三条橋下ニあごへかけ切し首有」三月十八日「三条磧ニ坊主二人殺害シアル」と言った、天誅が大流行。田舎は「村々見張りを置く、人数に応じ竹槍を拵え置き、若し狼藉者手にあまる事ある時は、突き止め切り殺し候とも苦しからざる由を申し渡さる」と言った状況で、社会不安も頂点を極めていました。
 折も折「赤い太陽と赤い月」が全国で観測されました。攘夷祈願の賀茂行幸が行われる前日の三月十一日青森県鰺ヶ沢町で「日月色赤く」と太陽と月が赤かったことが記されています、その後全国的に雨天がちの日が多く、観測の記録が少ないのですが、三月十五日群馬県の玉村町で「今日様、御輝ハ赤ク地ニうつる」とあり、十六日も玉村町で「御日あかく輝り地ニうつる」とあります。十七日には京都で「月赤色常ならず」沼田市でも「夜御月様赤キ事タトイヨウナシ」玉村町では「御日あかく御輝り地にうつる、月之光モ同断」、十八日に至ると、愛媛県松山市、高知県土佐市、香川県丸亀市、京都市、群馬県玉村町、同沼田市、などで赤日、赤月が観測されています。十九日も玉村町で記録があります。二十一日に至って丸亀の鳥居甲斐日記に「午下、十五日来の蒙気初めて散ず」とあります。
赤い太陽や赤い月は、空気中の黄砂や火山灰などの微細な物質が浮遊している時におこります。赤日の期間中は北風の日が多く、北の方から観測されて来ているところを見ますと、空中の微粒子は北から南下してきたように思われます。その正体は黄砂だったのでしょうか、はたまた火山灰だったのでしょうか。
いずれにしましても、赤い太陽や月は、ただでさえ未曾有の社会不安を一層掻立てるる効果はあったと思います。
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家茂上洛 黄砂降るなか

2008-09-18 00:23:14 | Weblog
次回の「篤姫」は家茂上洛を巡っての嫁姑の確執のようです。

上洛は当初海路の予定でしたが、突然陸路に変更になりました。色々な推測がありますが、真相はよく分かっていないようです。
世間では、上洛する将軍は贋のお方とか、将軍謀殺の陰謀があるとか、いろいろな噂が飛び交いました。将軍上洛は、三代将軍家光以来、二百年以上にわたって行われなかった 驚くべき出来事だったからです。
家茂は文久三年二月十三日(西暦1863年3月31日)正午頃江戸城を出立いたしました。出発時は薄曇りでしたが、2時間後の午後二時頃には雨が降り出してきました。丸亀に流されていた「ヨウカイ」こと鳥居甲斐の日記には「十日以来、日々蒙気あり、天爽やかならず」と10日から黄砂が飛来してきていた事を示しています。また13日の神奈川県生麦の関口家日記には「夕方より軒別煙り雨」と書いてあって、雨に黄砂が少し交じっていたような感じです。13日に川崎泊まりだった家茂の行列もこの雨の中を進んで行ったことでしょう。14日は「上洛風雨のため戸塚へ泊」とあります。            この風雨のあとに本格的な黄砂の飛来があった様子です。
各地の黄砂現象を抜き書きしますと、小倉では14日「霾」(バイと読み、意味は土降ること)、また「終日かつれ模様、土降る、柴の葉等白し」とあり、15日には三重県の伊勢松坂市で「土の如き霧降」、愛知県の豊田市でも「晴天ナゴにて煙り立つ」、また東京の武蔵村山市でも「九ツ(正午)以前、四方暗くして、土を吹き立てたる如し、昨日の雨にて土湿り吹き揚べきにあらず、奇と云うべし」とあります。黄砂は上空の強い西風に乗って、九州から次第に東へ飛来したと思われ、家茂上洛の行列とは、15日に神奈川県西部辺りで遭遇したように思われます。その後の幕府を暗示するような何とも、幸先の悪いスタートのようでした。
しかし、13日は土佐市で強風と波浪、京都で強風と記録があり、特にこの日、土佐藩主の帰城の際に、お供の士の笠が飛ばされ紐だけが残り格好が悪いので「頬かむり御免」の特例がだされた程でした。14日には強風域が秋田県田代町、福島県相馬市、新潟県巻町、広島市、東京都、神奈川県藤沢市、三重県熊野市、伊勢松坂市土佐市など全国的に広がりました。各地で波も高かったようで、巻町では「雨天後ニ大風、猟船大ニ難渋」などと記録もあり、将軍が陸路を取ったのは結果的には良かったようにも思われます。
もしかして、波浪や天気を予想して海路から陸路に変更したのでしょうか。天気予報が未発達な当時、ありえなそうですが、もう少し調べてみようと思います。

    

    
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薩英戦争 台風を追え

2008-09-16 00:46:38 | Weblog
 NHK大河ドラマ「篤姫」も回をかさねてきました、このブログでは当分大河ドラマと関係のある事件の日の天気を紹介してみたいと思っています。前回は生麦事件が放送されたました。この事件をきっかけとして薩英戦争が勃発したのですが、この戦争は台風が接近しているときに行われました。
各種の日記から薩英戦争当日の天気を紹介したいと思います。
生麦事件のあと、英国艦隊が鹿児島湾に入港したのは文久三年の七月二日(西暦1863年8月11日)です。この日は全国的に太平洋高気圧に覆われでした。江戸では「晴天89度」となっています。もっとも当時は華氏による温度が一般的には使用されていましたので、今利用されている摂氏にいたしますと32度程になります。また伊勢松坂市では「34度」の記事があり「炎天燃ゆる如し」天気でありました。九州でも鹿児島県肝付町、小倉市、豊前市などでただ奄美大島の桂久武日記には「曇天、雨少々」とあり、台風による影響が出てきているようです。
五日後の七月二日午後二時薩摩藩の発砲によって戦闘の火ぶたは切られました。台場からの射撃は強力で、二時五分頃には英国艦隊のカピタンとコマントルが戦死しましたが、薩摩藩は軍艦三艘を失い、午後三時には鹿児島市内に火災が起こり、戦争は次第に英国有利に傾いてゆきました。鹿児島湾ではお昼頃から風が強くなり戦闘が始まった、午後二時頃には激しい雨が降り、風は陸に向かって南風がふいていました。台風は七月二日日中奄美大島を通過し、二日夜から三日にかけて九州付近をゆっくり通過、翌三日の夜に日本海に抜けたと思われます。大雨や大風が記録されている地区は、奄美大島、肝付町、鹿児島市、豊前市、小倉市、高知市、丸亀市、山口市、周南市、広島市、熊野市などでした。いっぽう大阪府の池田市では「雨悦」京都市では「甘澤」などとかかれていて干天の慈雨と感じられた様子です。    
この台風での被害は肝付町で洪水、高知市で大風大雨、高波のため、柚、柿、栗などが落とされ畑に被害が出ました。山口では、御茶屋屋根が破損し、講習堂大炊事場が倒れ、かわらが吹き散らされ、民家でも屋根や障子などに被害がでました。周南市では大風のため大木が折れ通行が困難となり、激浪が起こりました。 七月三日から後の台風は行方がわかりません。韓国の日記で天気がかかれているものがありましたらお教えください。
さて、薩摩藩で台風の最中に砲撃開始したのは戦略的に正しかったのでしょうか、長州藩の攘夷も雨の日に決行されていることが多いようです。火事になりにくいようにでしょうか、船が揺れれば狙いが定まらないからでしょうか、これまたよくわかりません。
ともあれ、東北の片田舎に住んでいて各地の地理が分からなくて苦労します、旅行にゆきたいのですが、隙も金なく、わずかに「篤姫紀行」で の気分に浸っています。

追伸

この記事を書いてから、5年になりました。

先程、対馬「宗家文書の毎日記」の七月三日の記事を見つけました。記事には
「今未明より北風強、追々吹立、昼頃より暴風雨次第に列敷」とありました。
北風が吹くのは台風中心の左側ですので、台風は七月三日の昼頃、対馬の東海上を北上したと考えられます。
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