幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

あなたのとなりの「うなぎにんげん」

2008-11-19 17:07:46 | Weblog
 気象史料にあたっていますと、時折面白い記事にあたります。
 この話は、栃木県大間々町の修験者大泉院良賢によって書かれた日記にあったものです。日記には、良賢の日常や事件、天気が書かれていますが、怪異が書かれているのはこの記事だけです。たいへんリアリティにあふれているので、ここに紹介します。
いまから百六十年ほど前の、天保十二年八月二十一日は西暦でいうと1841年10月5日にあたります。この日、群馬県 山田郡大間々町大間々三丁目の壁塗り職人義兵衛の所で、婚礼が執りおこなわれていました。当日は太平洋岸を台風が北上しており、大間々では朝から薄暗く、午前八時すぎには、雨が降り出しました。雨は次第に強くなり、夜はどしゃ降りとなりました。 左官の義兵衛 の結婚披露宴は雨の中を行われていました。井戸の脇には、吸い物にするうなぎ十三、四本が空の桶に入れられていました。伊勢屋の雇用人が手伝いに行っていましたが、誰もいないはずの、井戸の近くで「桶へ水をいれて下さい。」と声がしましたので、ふしぎに思い桶の蓋をあけてみたら、大きなうなぎが頭を10センチばかりもたげていました。また蓋をして、井戸の水を汲み蓋を開けようとすると今度は「助けてくれ、助けてくれ」と声がしました。驚いてうしろを振り向いたが人はだれもいません。蓋を開けてみると、耳のはえた大うなぎが顔を25センチほどももちあげていました。
日記はこう結んでいます。
「右様の事、ままうなぎにてこれ有り、うなぎ渡せい相止め候人、江戸にはこれ有るよしなり。」
東京で生活しているあなた、あなたのとなりの「うなぎ顔」の人も、うなぎ生活をやめて人間になった人かもしれません。

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ペリー来航の夏 アメリカがまたフランスでこまりけり

2008-11-16 15:05:33 | Weblog
次回の、篤姫はいよいよ鳥羽伏見の戦いの模様ですが、鳥羽伏見の戦いではとりわけて特別な天気ではありませんでした。
 そこで今回は幕末の社会変動のい出発点と言うべき、ペリー来航の夏の干ばつを紹介いたしましょう。 
アメリカ合衆国のペリー提督が黒船四隻を従えて浦賀に乗り込んできたのが、新暦の1853年7月8日(旧暦六月三日、以下日付は新暦)、今から155年ほど前のことである。幕府は大あわて、諸藩は海岸警備に借り出される、庶民は見物で、江戸から浦賀までの海岸線は押すな押すなでごった返した。7月27日将軍家慶が亡くなったが、世間では、家慶が遠眼鏡で黒船を見るため江戸城天守閣から身を乗り出し、落ちて死んだとの噂がもっぱらであった。
 西暦1853年、日本の年号では、嘉永六年の夏、ぺリー来航と同じくらい庶民を悩ましたものがあった。旱魃である、この年の旱魃はひどく「六十年余、覚えざる大ひでり」で「暑い暑い」の声が日本列島に充満した。「雨の気はアメリカへでも行たかえ」との洒落も飛び出した。実際、ぺリーが滞在した、7月8日から17日までの沼津市での最高気温の平均は、33.8度で暑さが甚だしく、30度を越える暑さは9月上旬まで続いた。雨も6月30日を最後に9月14日頃まで、雷雨を除けば雨らしい雨はなく、7月、8月をピークとして、10月頃まで水不足が続き、俗に言う「百日ひでり」の状態であった。もちろん、日本各地で秘術をこらした「雨乞い」が行われた。霊験あらたかな神々に歌舞音曲を奉納したり、神社の御札を海に沈めたり、霊山への登拝、龍神様の像を造って神社に篭り結願の日に焼き払ったり、町内会で山車や手踊りをだしたり、日本全国雨乞い祭りであった。
 夜には、不吉の前兆とされる妖星が北西の方角に長々と尾を曳き。
まことに、世の中の終末を思わせるものがあった。そんな、ある日江戸城の御門前に二本の大根にお灸がすえてあった。そのこころは、「日本大困窮」。
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薩摩三田屋敷襲撃 放火が怖い、からっ風

2008-11-05 19:54:30 | Weblog
 庄内藩らによる薩摩藩三田屋敷の焼き討ちは、戊辰戦争の先駆的な戦いでした。慶応三年十二月二十五日(西暦1868年1月19日)のことです。「三右衛門日記」によりますと、当時三田屋敷では、一度の食事にさんまの干物二百七十枚づつ焼いたと言いいますから、一人一枚づつ食べたとすれば270人ほどの藩士や浪人などが居たと思われます。対する庄内藩をはじめとする幕軍は「丸山日記」によると4000人と書かれています。どちらも信用できないところもありますが、幕府側が圧倒的に有利だったのは間違いがないようです。
幕府側は、薩摩屋敷を取り囲んだまでは良かったですが、多くの浪士や薩摩藩士を取り逃がしてしまいます。逃走は薩摩の軍艦に逃込んだ者や陸路を逃げた者など様々だった様子ですが、取り逃がした原因について、当日は風が強く、浪士たちによる放火を恐れたため捕縛がおろそかになったと言われております。 
 本当かどうか慶応三年十二月十五日の天気を検証して見ましょう。      先ず日本海側を見ますと、青森県森田町で「大雪吹、氷甚だし、往来難渋」山形県川西町で「雪」、新潟県新発田市で「雪降」、福井県鯖江市で「雨」、鳥取県鳥取市で「雨」と軒並み降水があったことが分かります。一方太平洋側は、岩手県盛岡市で「晴」、江戸で「晴」、三重県熊野市で「上々天気」、和歌山県田辺市で「晴天」、高知県土佐市で「半晴」、鹿児島県高山町で「晴天」となっております。日本列島を全体的に見ますと、日本海側は雪または雨、太平洋側は晴れとなっており典型的な西高東低型になっていることが分かります。西暦1月19日ですので一年中で最も寒い時期です。当時、衛星雲画像があれば日本海側に寒気の流入に伴う筋状の雲がはっきり見えたでしょう。また、関東では西高東低型で寒気移流の強い時は、山越気流「からっかぜ」が吹きます。
関東地方の日記から風の記述を抜き出しますと、栃木県日光市では「昼後風」、千葉県銚子市では「天気北風」、武蔵村山市で「夜風」、静岡県下田市では「天気風つよし」となっていて、朝から日中、日中から夜にかけて風は次第に強くなっていったようっです。江戸での風は西よりの風と思われますので、三田に火の手が上がれば江戸の町は危険な状態になります。幕府による、三田薩摩屋敷襲撃隊は、このような気象状況で、寄せ手の一方を「火の用心」に回さざるを得なかったのでありましょう。
三田薩摩藩邸襲撃のさい、浪士の放火を恐れて捕縛がおろそかになったと言う、幕府側の言い訳とも取れるこの説は、恐らく本当だったと思われます。
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