幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

とばっちり 徳川家斉没 天保十二年閏一月三十日(西暦1841年3月22日)

2012-07-29 16:30:51 | Weblog
風が吹くと桶屋が儲かるという話がありました。

世の中はいろいろ連鎖していて、思いもかけぬことから、とばっちりを受けることがあるものです。
大御所徳川家斉の没したあと、すぐに出された御触れは「鳴り物、普請の禁止と火の用心」です。

幕臣 鷹見泉石日記には
○大御所様、御養生叶わせられず、今辰下刻、薨御あそばされ候に付
鳴物、高声、普請停止、諸事相慎、火之元わけて入念申すべき事

○魚売、四ヶ所御屋敷、御門入申さず候事

○御家中之諸士、御目見え格まで、月代剃り申すまじき事
  (間違って剃ってしまった人は仮病を使うしかないでしょう。)

○普請御停止中他出相成らず候事、並び通之面々、途中別て相慎、通勤致すべき事

などとあります。
普請停止ではまず建設業が打撃を受け、鳴物停止では芸人芸者衆が飯を喰いはぐれ、公務以外の外出禁止では多くの商人が、特に魚売りはてきめんに売り上げを落としたことでしょう

鷹見泉石日記には、二月二日までは、「町方戸を締、商売相休」とありますので江戸中の商店は全て戸を下ろしたようです。
しかし、大泉院日記二月八日の記事には「御停止に付、今日市中みせ残らず休み、店々にてひさし下へ障子をつるしみせ先をかくし売買す」 とありますので、商売への規制は二月八日も続いていたようです。隠れて商売を続ける者も多かったでしょうし、また幕府も陰での商売は大目に見たのかもしれません。



こうなりますと、困るのは蓄えのないその日暮らしの人々です

大泉院日記三月二十四日の記事には、鳴物渡世の御触れについて、
「右御触れ、、日数五十日也、江戸にては其日渡世之もの難義致し、妻子置きざりに致し逃去もの多分にこれあり候風聞なり」
とありまして、生活苦で家族を見捨てて逃げ出した其日暮の鳴物渡世人も多かったようすです。

結局、家斉が死んで一番困ったのは、御触れに関係する其の日暮らしの人々だったと思います。
いつの世も「とばっちり」は弱い者にふりかかりますなあ~。

話しは変わりますが、先ごろの大津波で、莫大な死者を出した所には、「支援のため」沢山の有名鳴物芸人が入っております。江戸時代人が聞いたらば、「鳴物はご勘弁を」と言うことになるでしょう。

まあ~違う意味で、歌は世につれ、世は歌につれ、といったところでしょうか。
                         
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網走と同じ気温では大御所様も寒かろう 徳川家斉没 天保十二年閏一月三十日(西暦1841年3月22日)

2012-07-22 18:38:59 | Weblog



 天保十二年は文化文政を含む江戸文化の花開いた大御所時代の終焉の年であるとともに、水野忠邦の天保の改革が本格的になる節目の年であったように思います。

天保十二年年の正午の気温を現在の平年値と比較しますと、


となって、現在に比べると大変寒冷であった事がわかります。

この年の閏一月三十日辰下刻(西暦1841年3月22日)将軍継承いらい、五十年の長きにわたり君臨し続けた大御所徳川家斉が没して大御所時代が終わりました。
家斉の没した1841年の3月は正午の平均気温が摂氏6、7度と現在の平年値である11、9度より5、2度も低くなっています。
実際家斉が没した日の天候と気温をみると、

朝薄曇、31度(摂氏マイナス0、6度)
午正薄曇、42度、(摂氏5、6度)
初昏曇、49度、(摂氏9、4度)【霊憲候簿】

となっていて、3月も下旬だと言うのに朝は零下を記録しています。
家斉が没したのは、辰の下刻ですから午前9時ころですので、
気温はおよそ、摂氏1度前後だったでしょう。



戯れに、今年(平成24年)3月11日の午前九時で摂氏1度前後であったところは、
なんと、北海道の網走付近でした。
江戸城とは言え木造建築です。
よくは分かりませんが、暖房とても火鉢や湯たんぽ程度だったでしょう。
とても、現在の家屋や暖房とは較べる事はできません。

してみますと、現代人の感覚では、「徳川家斉ロシアに死す」と言う感じでしょうか。

やっぱ現代人は楽ですねえ。
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