幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

キャラメルに懸けた願い

2014-06-16 22:48:58 | Weblog


ここ三度、葬式に出たとき、帰り際にキャラメルを頂いた。

珍しい風習なので、色々聞いてみると、葬式の後にキャラメルを配るのは、

仙台平野の北端=北上山地の南端の宮城県栗原市の若柳地区 武槍、有賀

金成地区の津久毛、小迫などの集落だそうな。


 古老に伺ってみると、

「キャラメルは、葬式に子供が集まり、最後まで居るように終わりに配ったのが今は風習として残った」

と言うことであった。



昔はキャラメルは貴重品だった。

今はキャラメルに集まる子供はいない。

キャラメルを配る行為には、亡くなった人を賑やかに送ってやりたい、と言う願いが込められていた。

楽しくて、どこか哀しい風習であります。



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銭屋五兵衛 牢死の時の天気【嘉永五年十一月二十一日(1852年12月31日)~二十二日(1853年1月1日)】

2014-06-08 23:36:11 | Weblog
西暦1852年(嘉永四年十二月十日~嘉永五年十一月二十一日)の昼の気温を現在の平年値と比較してみた。



1月、7月、8月の気温は、現在の平年値に近かったが、ほかの月は現在より2度~4.5度ほど低かった。
前回比較してみた1851年は1月と8月、9月が平年値に近く似たようなグラフになった。
単なる偶然であろうか、理由は全く分らない。

1852年も、前年と同じように関東以西では水飢饉が深刻であった。


1852年の大晦日から元旦(嘉永五年十一月二十一日~二十二日)にかけての間に、加賀の豪商 銭屋五兵衛が牢死している。

銭屋五兵衛の罪状は、

加州ケ崎の潟の諸魚自然と死し浮申候、右魚ヲ食シ候鳶、鳥、雁、鴨、鷺なと死し、中ニハ人も損シ或ハ死し候躰、金沢ニ而ハ喰用不相成段御触渡しも御座候段由、、【応響雑記】

という、毒流しと

加州金沢銭屋五兵衛ト申者先年ヨリ唐人ト触交易致候ニ付、御公儀様エ相聞エ候、御改易ニ相成候、右ニ付国乱ノ始【阿佐美日記】

という、密貿易の罪であったと言われる。

しかし、本当のところは、兆とも言われる北前船での巨額の富、金沢藩内の主導権争い。金と権力のドロドロした部分が大きく係わっていたのであろう。

【応響雑記】の一月三日の記事に

銭五の隠居一昨日牢死仕候義相違無之、同人方前通り死骸をモッコニ釣才川川下え持行候由、行年八十四と申事、

というほどの凋落ぶりであった。

自ら利用していた、金と権力の巨大な歯車に巻き込まれ、忽ち罪人となって押しつぶされて行った、銭屋五兵衛。

命日の天気図を作って供養としよう。

嘉永五年十一月二十一日は、


低気圧が日本列島を通過したと思われ、雪や曇りなど悪天候の所も多い

翌、二十二日になると、西高東低の気圧配置がはっきりして、日本列島は、概ね日本海側では雪、太平洋側では晴天となっている。



江戸での気温は



となり二十一日から二十二日の夜の冷え込みが厳しかったようである。


幸い【応響雑記】の著者が金沢に滞在していて当日の天候が詳しく書いてある

十一月二十一日は「 曇天、折々淡陰或ハ雪花ちらつく、寒気つよし、、八ツ頃より淡雪ぼたぼたと頻に降る、、夜中折々雪降也 」

十一月二十二日は「 淡陰或ハ曇天折々雪花ちらつき寒気甚し、、今朝雪深サ七八寸斗、、折々むら晴融気ニ而往来あしく雪も追々消申躰也、、稀々むら晴也 」

とあり、雪は一晩で21cm~24cmも降ったようである。

銭屋五兵衛が死亡したのは、嘉永五年十一月二十一日の夜から、十一月二十二日の朝の間あったので、(新暦では1852年12月31日から1853年1月1日)、おそらく寒気が強く、雪が降りしきっていたであろう。

八十四歳の 北前船の王者 銭屋五兵衛の死骸が釣られたモッコは、雪が溶けた泥濘の中を進んで行ったに違いない。







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