幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

江戸大雪三尺(約90cm)   天保十二年十二月十七日(西暦1842年1月28日)

2012-09-23 13:45:13 | Weblog
 江戸大雪三尺   天保十二年十二月十七日(西暦1842年1月28日)と【日本の気象史料】にあります。

霊憲候簿によりますと1942年の1月から3月の正午の気温は



となっていまして、現在の平年値と比較しますと、1842の1月の平均気温は現在の気温より6度も低かったことがわかります。

それにしても、東京で90cmもの雪が降るものでしょうか。
気象庁天気相談所が作成した、東京の年最深積雪の記録と年間降雪日数によりますと、昭和21年以降の東京での最深積雪は、 1951(昭26)年 2月15日の33cmとなっています。

日本気象史料はどの史料をもとにして三尺としたのでしょうか。
【月岑日記】に「大雪、三尺程つもる」とありました。
早速、他の史料に当たってみますと

陰、寒。雪大いに起こる晩深き所は、殆どニ尺を過ぐ。亥刻。雪止む【慊堂日暦】【江戸】

雪降辰刻より酉刻迄凡弐尺余積ル【関口日記】【生麦】

雪天、雪ふる壱尺五寸程【石川日記】【八王子】

雪八寸【甲府付近の天候表】

などとなっていて、海岸に近い程積雪量が多かったようです。

三尺はやや誇張があるのではないか、と思いましたが、
【慊堂日暦】の翌日記事には「雪晴る、、、深き所は三尺ばかりと」あり、ほぼ90cmの積雪があったことは間違いありません。

【霊憲候簿】によりますと、当日の江戸の天気は、
         朝曇、30度余、29寸8分6厘 摂氏-1度
         午正雪、32度強、29寸9分1厘 摂氏0.2度
         初昏雪、32度半、29寸7分8厘 摂氏0.3度 となっております。

江戸では、午前10時頃から夜の8~10時くらいまで雪が降りました。凄まじい雪ですね。

被害は特に無かったようですが、今このような大雪が降ったらさぞ大騒ぎになることでしょう。

新潟県柏崎市では、この日「けんちん吹雪」がふりました、曰く

「小吹雪吹たて、窓や雨戸に当る、音ばりばりこれをけんちん吹雪と申す、音を聞いても身体がちぢまるよおになり」
【柏崎日記】




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紀州大納言狙撃さる

2012-09-02 17:56:32 | Weblog
紀州候、箱根にて狙撃され死亡のうわさ


てんてんてんまり、てんてまり

西条八十の「まりと殿様」は良く分らないところがあります。
あえて言えば「手まりの手がそれて、供先を割り、小児が無礼打ちになった」
と言う、恐ろしいスト-リーが下敷きになっているような気もします。


大坂の【浮世の有様】と言う日記の天保十二年二月二十三日の項に

「春来奇怪の浮説種々、、紀州侯無禮せし小児、其親当を掛川の宿にて切殺し、箱根に於て、鉄砲にて打殺され給いしなど、」

との記述があります。


要約すると、
「春から色々なデマが飛び交い、、紀州候に無礼をした小児と其の親などを掛川宿で切り殺し、箱根で紀州候が鉄砲で撃ち殺され

たなど、」となります。


確かに、紀州候斉順は天保十二年の一月、武士1639人、人足2337、馬103頭という大部隊を連れて江戸入りしています。
しかし【浮世の有様】の作者も浮説と書いているように、当時の紀州藩主徳川斉順に特別な変化はありません。

では何故、この噂が出来たのでしょうか。
おそらく、徳川斉順の江戸出府の様子が異常だったからだと思われます。

天保十二年閏一月二十九日の藤沢市遊行寺の【藤沢山日鑑】に、遊行寺へ立ち寄る予定だったが「江戸表より御急之趣申来」  て遊行寺立寄りは中止となり、「紀州様非常御立抜」とあります。

また【関口日記】【生麦】には、「紀州様御参府朝早シ(天保十二年閏一月三十日条)」とありますように、異常な急ぎぶりだった事は間違いありません。

言うまでも無く、「江戸表より御急之趣申来」と言うのは、天保十二年閏一月三十日の大御所徳川家斉の死です。
紀州藩主徳川斉順は、大御所徳川家斉の七男ですので、この急ぎぶりは納得できます。

日本一とまでいわれ4000人もの供廻りを連れた、紀州の大名駕篭が東海道を東に急ぐ姿は異様なものだったのでしょう。
この異様な大名行列を見て世間の人が、あれこれと憶測したのではないでしょうか。
この年、家老の三浦為章が亡くなったことも、噂の一因かもしれません。

ところで、江戸時代後期には、無礼打ちなどあったのでしょうか。
私は、今のところ文献は見たことがありません。

江戸後期には、一部の気違いは別として、無礼打ちなどない成熟した社会が作られていたのではないかと、私は考えております。

コメント (2)
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