幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

幕末海難シリーズ第四弾! 開陽丸座礁 明治元年十一月十五日

2010-10-31 17:57:31 | Weblog


 明治元年十月二十日、北海道渡島半島東岸の鷲の木に上陸した榎本軍(旧幕府軍)は
二十六日に五稜郭入場、十一月に松前城攻略など破竹の勢いを示します。
これれにたいして、明治政府は援軍を送る事が出来ませんでした。
理由は簡単です、榎本脱走海軍が強力で手出しが出来なかったからです。
なかでも、開陽丸は排水量2800トン、400馬力の蒸気機関を備え、他艦を圧倒する軍艦でした。。

まさに、榎本艦隊の虎の子です。
しかし、明治元年十一月十四日(新暦1868年12月27日)残敵掃討のために出撃し十五日夜、
江刺沖で座礁し沈没してしまいました。
まことに手痛い損失でした、甲鉄艦が明治政府に引き渡されると海軍力は逆転、
翌五月五稜郭は開城して榎本武揚は降伏しました。

それでは天気を見て行きましょう。
上の天気図にありますように、十二、十三、十四日と日本列島を低気圧が東進しています。

低気圧の西側では強い寒気が控えていました。中国の清江にいる曽国藩の日記には、【墨凍殊甚、申正以后正大雪】とありますように墨が凍り午後4時頃から大雪になったとあります。

十五日になりますと、

天気北風【銚子】
快晴【世田谷】
大晴天【八王子】
晴【浜松】
天気【伊勢松坂】
照、風【広島】

などのように東海や四国地方の太平洋側は晴れ
一方日本海側や北日本では、

微雨、冱寒【函館】
雪【盛岡】
雪但是ヨリ根雪トナル【森吉町】
冬空【秋田県雄勝町院内】
天気、夜ニ入雪【尾花沢】
半天【鳥取】
雨【馬関】
寒雨【長崎】

となっていて、太平洋側は晴れ、日本海側は雪や雨など典型的な冬型となっていた事
がわかります。
ただ、この寒気は大変強く

夜少々雪【日光】
夜曇り雨降ル【熊野】
晴、晩方陰る、寒し、、夜中別して寒し、風大ニ吹く、夜半頃より時雨大ニふる【土佐市】
雨降夜半比より雪降【南阿蘇町】

とありますように、十五日の夜には、日本列島を寒気が包んでしまいました。
気象衛星の赤外画像で雲の様子を見ますと、大陸からすぐに筋状の雲が発達し、日本列島を包んで、太平洋まで
達していたことだろうと思われます。

この寒気のなかでは、いかに開陽丸でもたまりません。

【説夢録】を引用しますと、

天明北風強く雪降り寒気殊に甚しく耳鼻切らるる如く、、
此日六時頃ヨリ暴雨起り、降雪甚しく咫尺を弁ぜず、夜に入りて風浪倍ます、猛烈を極む故に、
開陽鑑は殊更間断なく、蒸気を貯へ居たりしが、夜十時頃に至り蒸気力も其効を奏する能はず、
遂に碇を絶ち、一瞬の間に岸に近接して暗礁に乗り上げたり

となります。
では、何故開陽丸は、出航したのでしょうか。
江差の戦況はそれほで緊迫してはいないように思われます。
榎本は功をあせったのでしょうか。


「擬似晴天」と言う現象があります。
低気圧に伴う悪天が過ぎた、後本格的な寒気が流入する前に天候が一時的に回復
する状態を言います。
恐らく榎本はこの現象に騙されたのだと思います。
寒気は凄まじく
連日の暴風激浪のため鑑中の榎本等上陸するを得ず、、
第四日目に至り聊か風の撓むを見て、、辛うじて上陸【説夢録】【江差沖】となります。

開陽丸の座礁は気象学の未熟故のことだったと思います。
いずれにせよ、開陽丸の座礁で函館新政府の存続は難しくなりました。


翌二十六日の朝 東京にいる木戸孝允の日記にはこうあります。「朝雪当年の初雪」
この寒波で明治政府は思いもかけないプレゼントを貰った事になります。
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シーボルト先生が指摘した、江戸のヒートアイランド現象

2010-10-17 18:17:10 | Weblog
 ようやく、涼しくなって参りました。
今年の夏は凄まじく、とても江戸のヒートアイランドに言及する気になれませんでした。

特に、大都市東京の暑さは、東北の片田舎にすむ私の想像を絶するものだったでしょう。

ところで、文久元年に江戸の赤羽根の宿舎にお住まいのシーボルト先生は、
江戸のヒートアイランド現象を指摘されています

1826年における江戸の人口は、天文方の公式な発表によると、町人だけでも、113万1000人である。そこには数百という各藩主の家族も、その家臣、侍、役人、使用人、兵士、僧侶、尼僧らの相当数の随員なども含まれていなかった【シーボルト日記】【江戸赤羽】

と江戸の町の大きさを紹介しています。
そして、この巨大な江戸の町は瓦屋根で覆われています。
(江戸幕府は火事を恐れて、屋根を瓦葺きにすることを奨励しています。)



シ-ボルトはこう指摘します。

七月と八月には、江戸湾と江戸の町は温度が上がり、ときには木陰でも華氏94度(摂氏34.4度)にまで達することがある。
たえず南から、南東から風が吹く。
この風は地表の空気が、黒くて厚い屋根瓦によって異常なほど暖められた当然の結果である。
この黒い屋根瓦は、巨大なる都市の数マイルにも及ぶ面積を覆っている
(江戸の表面積は大きな地図で算出される)【シーボルト日記】【江戸赤羽】


確かに、瓦は熱吸収率が高く、昼間の太陽の熱射で深層まで高温となり、蓄えられた熱が夜間に放出されます。
また、人口が多いので、火の使用量が増え、排熱量が増加したと思われます。
さらに、町の中は、緑地面積が小いので、植物や地表からの水分の蒸発量が減り、気化熱の効果が減少します。

など、確かにシーボルトの指摘は正しかったように思われます。
そのうちに、桜、梅などの開花日や、霜、雪などの日数を郊外と較べてみようと思っています。

今でも下町の路地を入ると、ところせましと盆栽や植物の鉢が並んでいたりします。
江戸の町は猶更、だったようです。
金魚を飼って、水分の蒸発量を増やしたり、盆栽や観葉植物を作ったり・・

もしかすると、江戸町人のヒートアイランド現象にささやかな抵抗だったのかも知れません。
東京のヒートアイランド現象を解決する鍵もこんなところにあるのでしょうか。

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荒城の月 明治五年青葉城のありさま

2010-10-03 18:44:08 | Weblog
 さっき、蕎麦屋で筝曲の「荒城の月」がかかっていました。
秋はまさに深まってまいりました。



 曲を聴きながら、陸中国和賀郡浮田村 日下弥平の道中日記を思い出しました。
道中記は、明治五年九月十四日から十月三日まで、現岩手県花巻市東和町浮田の
日下弥平が、家から金華山と仙台を見物した時の記録です。

 弥平が仙台の青葉城を訪れたのは、九月二十七日頃でした。

記事には、「夫より大橋渡り、御給領の内丸、皆野原ニ相成、目もあでられぬ次第なり」
と書かれています。

仙台藩降伏から、まだ四年弱、空家になった城は誰でも勝手に入りこめ、狐狸のすみかとなっていたようです。

土井晩翠の「荒城の月」作詞より大分前ですが、陸中国和賀郡の日下弥平も世の盛衰に感慨一入だったことでしょう。
コメント (2)
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