幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

嘉永四年 川砂利焼けで、大井川留る(1851年昼の気温)

2014-05-22 23:13:21 | Weblog
西暦1851年(嘉永三年十一月二十九日~嘉永四年十二月九日)正午の気温を現在の平年値と比較してみた。



1月、8月、9月の気温は、現在の平年値に近かったが、ほかの月は現在より2度~3度ほど低かった。

1851年1月は比較的あたたかかったが、1月22日(嘉永三年十二月二十一日)上野国大戸の関で国定忠治が処刑された、快晴で上州名物からっ風(北西の風)が吹く日であった。
ちなみに江戸では、朝摂氏1.7度、正午は摂氏7.2度と日中は気温が上がったようである。

また、1851年の8月と9月も、現在とほぼ同じくらい暑かった。
嘉永四年九月一日(9月25日)には、

一昨日御廻状ニ残暑強ニ付夏服可相用旨【竹斎日記】【江戸】

と御触れがでたほどである。

講談社の【再現日本史】によれば、この月(七月)、猛暑炎天のため太井川の河原砂利が焼けて数日間川止めとなる
とあったので、その日が何日か調べてみた。
先ず、嘉永四年七月の正午の江戸の気温をグラフにしてみたのが、下図である。



グラフによれば、7月17日から7月21日まで(旧暦八月十三日~十七日)の昼の気温が摂氏31度を超えている。

この五日間のうち、最も暑かった7月20日の午後2時頃には、摂氏34度程に達している。
おそらく、この五日間辺りが、大井川でも川留めとなったのであろう。
ちなみに、大井川の渡し人足賃は84文と竹斎日記にありましたので、840円ぐらいでしょうか。




大井川は遠いので、行けません。

せめて、この夏、昼の気温が31度になったら、素足で近くの迫川の河原で砂を踏んでみよう。

「あっちい」「あっちい」



         すべて気温は霊憲公簿からです
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西暦1850年(嘉永二年十一月十八日~三年十一月二十八日)昼の気温を現在の昼気温と比較しますと

2014-05-05 18:23:07 | Weblog
だいぶ暖かくなってきました。

今回は、西暦1850年(嘉永二年十一月十八日~嘉永三年十一月二十八日)の昼の気温を現在の平年値と比較いたしました。



1580年は、9月を除いて現在より気温はやや低めでしたが、8月は月平均気温で3.2度ほど低く、寒い8月であったことが分ります。
この気温の下、江戸では嘉永三年一月に30cm余も積もる大雪があり、三月には大火、十二月には高野長英が追い詰められて自殺しています。
天保の頃と比べますと、気温が高くなっておりますが、まだ現在の平均気温には及びません。やはり江戸は東京より寒かったのでしょうか。
コメント (2)
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