幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

西暦1845年(天保十五年十一月二十三日から弘化二年十二月三日まで)の昼の気温を現在と比較

2012-10-28 16:14:09 | Weblog
 西暦1845年(天保十五年十一月二十三日から弘化二年十二月三日)
までの昼の気温を現在と比較しますと、

となります。

1845年のお昼の気温は1月はほぼ現在の気温と変わりませんが、8月以降は現在の平年値よりぐっと冷えている
事がわかります。
現在の平年値との年間の気温差は4.4度程です。
やっぱり、天保年間は現在より大分寒かったことが、具体的数値でわかりました。
長い道のりですが、比較的暑かったといわれます、嘉永年間に向けて現在値との比較をして参りたいと思います。

ところで、比較して何になるのでしょうか。
やってる本人が分かりませんのです。
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宮城県栗原郡若柳町 昭和六年の地図複製販売

2012-10-20 14:31:08 | Weblog


宮城県栗原郡若柳町昭和六年の地図が複製販売されます。



歴史探訪は、昔の人が残したごみを漁るようなものです。

この地図は結構楽しめます。

一枚200円です。

お問い合わせは、若柳商工会(0228-32-3100)

若柳観光協会です。
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江戸城本丸全焼 天保十五年五月十日(1844年6月25日)  

2012-10-14 15:30:14 | Weblog

 霊憲候簿 で江戸の正午の気温を追いかけて、現在の平年値と比較してきましたが、水野老中の改革の余波でしょうか、はたまた火事にでもあったのでしょうか、
天保十三年二月二十一日から天保十五年二月四日まで気温の記録が途絶えてしまいます。
どうしようもないので、天保十五年から気温の比較を再開いたしましょう。


天保十五年もまた、現代と比較しますと平均で2,1度ほど寒冷であったことがわかります。
やはり天保は寒かったようです。
天保十五年といえば、飯岡助五郎と笹川繁蔵の大利根河原の決闘、高野長英の放火、脱獄など幕府権力のゆらぎが大きくなってきた年でもあります。

そんな中で、天保十五年五月十日(1844年6月25日)水戸藩の藤田東湖に日記によりますと、「暁七ツ時大城奥より出火御本丸不残御焼失」 となります。火は「朝五時頃鎮火」とありますので、4時間ほど燃えていたようです。
まだ暗い午前四時の火事です、消火活動も十分ではなく、江戸城本丸は全焼、たくさんの人が亡くなり、多くの財宝が灰塵に帰しました。
庶民一同には、何か増税を感じさせる出来事です。

ともあれ、江戸の大火と言いますと、西高東低の冬型気圧配置で西よりの乾いた風がつきものですが、この日はどうでしょうか。前日の九日から江戸の天気をみて参りましょう。
九日
大雨【二宮尊徳日記】【江戸】
雨ふる【月岑日記】【江戸】
終日大雨、夜に入篠をつくが如し【藤田東湖日禄】【江戸】
初昏雨北風、68度(摂氏20度)【霊憲候簿】
十日
昨九日より大雨今日一日振り申候【二宮尊徳日記】【江戸】
雨ふる【月岑日記】【江戸】
朝雨北風、、67度半(摂氏19.7度)【霊憲候簿】
となっていて、梅雨の最中で連日の雨、しかも火災中は滂沱たる大雨だったことが分かります。
気温は15~19度くらいで、弱い北風がふいていたようです。

油断があったのでしょう、大雨の中の大火、ちょっと珍しい情景です。まったく火災は恐ろしいですね。

というわけで


写真の牛の絵は、出羽三山を厚く崇敬する人々に火難が生じると どこからともなく神牛が現れ火煙の中を駆け回り火を消すと伝えられ[火伏せの牛]として崇められているお札です。

かく言う私は,修験道羽黒派山伏 健澄 でござります。
コメント (2)
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