幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

高野長英 放火脱獄 弘化元年(天保15年)六月二十九日

2009-06-28 11:05:20 | Weblog
 高野長英の脱獄を語るには小説家、吉村昭氏の「長英逃亡」が欠かせません。
長英が下僕栄蔵に小伝馬町牢獄の近くに放火させた日も、吉村氏が定説を覆し、弘化元年(天保十五年)六月二十九日だと言う事を究明いたしました。
 お人柄も大変気さくで、写真の葉書は、見ず知らずの私が「升子の日記」について御願いの手紙を書いた時に、御返事に頂いたものです。
面白い小説ですので、興味のある方は長英逃亡をお読みになられることをお勧めします。
 前置きが長くなってしまいました。
弘化元年六月二十九日は西暦では、1844年8月12日です。江戸の「月岑日記」によりますと、11日まえの六月十八日(西暦では8月1日)に「雨降り、、後晴る」と雨が降った後は連日「天気よし」となっていて日照りが続いたことがわかります。六月二十九日の後も「天気よし」は七月四日まで続きました。江戸はじめ日本列島は、安定した夏の太平洋高気圧の張り出しの下にあったようです。
 11日間連日の晴天ですから、建物は乾燥していて、火を点ければ燃え易い状態になっていたことは間違いありません。放火しても失敗する事は少ない気象環境だったと思います。
 また、江戸の大火は、強風と乾燥の二つの大きな条件で起きています。日本列島が安定した太平洋高気圧に覆われますと、弱い風は吹きますが、強風になることは稀です。
天下の碩学、高野長英がこの気象条件を見逃すはずはありません。
長英は、確実に牢屋近くに火事を起こし、放免になることが目的であって、江戸の町を危険にさらす気はなかったはずです。
 そこで長英が選んだのは、夏の日照りが続き建物が乾燥し、風の弱い夜であったと思われます。実際六月十九日以降の日記で強い風の記述があるのは、六月十九日小倉で「曇、夜大雨大風」、二十五日の桑名「天気西風強し」の記録ぐらいで、全国的に風の弱い状態が続いていたと思われます。
六月二十九日の天気状況は、宗谷、厚岸、涌谷、川西、江戸、日光、調子、江戸、甲府、鯖江、大阪、京都、鳥取、鹿児島、など全国的に晴れ。
長英が栄蔵を使って放火させたのは、お盆前の油照りの日の夜でした。



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幕末放火二題 高野長英 高杉晋作 井上馨

2009-06-24 19:36:45 | Weblog
あろうことか、小説
を書くために、品川御殿山のイギリス公使館焼討ち事件の当日の天気をしらべて欲しいと依頼を頂いた。
道楽と割り切って、地味にやってきた私は吃驚仰天、早速史料集めに取りかかった。
当日は、井上馨卿がずぶぬれだったと、その回顧録に書いている。ところが調べてみると違っていた。
よく考えてみると結構面白い結論になった。
放火は重大犯罪である。それを敢えて行おうとするのであるから、当然綿密な計画を立てていたはずである。
目的によって、気象条件を選んだでことであろう。
逆に事件当日の気象条件を知れば、放火犯の企みが分かるのである。
そこで、今回は2回にわたり、幕末の二大放火事件を検証してみようと思う。
  次回は、高野長英による伝馬町牢獄放火事件
  その次は、高杉晋作らによる品川御殿山イギリス公使館焼討ち事件
気象から歴史を検証した例が無いので、全て新説です。だれも入山したことのない山に入って蕨やキノコを採るようなものです。さぞかし大きなキノコや太い蕨があることと思います。ただ遭難しなければ良いのですが。
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江戸大雷 ありがたい 鳴神御下り ありがたい

2009-06-12 16:22:33 | Weblog
前回ご紹介しました「慶雲斎日記」によりますと、嘉永三年八月八日(1850年9月13日)江戸では大雷がありまして、「夕七ツ時過より遠雷漸次振、黄昏大雨雷声益強大、七ケ処へ落雷、日本橋、茅場丁、逆井両処ニ雷火有り珍事」とありまして、雷火により火事も出来いたしました。夜の雷だった事と雷の激しさから寒冷前線に伴った界雷だったと想像しましたが、、江戸の日記に寒冷前線通過時の風の変化(南風から西風)や気温(暖から寒へ)の記録がありません。ただ、前日から当日にかけて西日本を通過した台風の影響で、毎日東南の風が吹いていることから、対流不安定による雷の発生かと考えられます。八日は江戸を始め、丸亀、池田、沼津、日光などで雷が発生いたしました。
 ところで、噺は変わりますが、この頃時々「雷除の御札」を見かけます。雷は怖いので当然と思っていましたが、江戸時代人にとっては、そうでもないようです。
この日記に「雷後評判記」と言うものが書かれています。引用しますと、

  夫、天地不時の変動ハ陰陽混してげきするなり、地にいれハ動いて地震をな  す、天にある時ハ雷声をはつすとかや、頃ハ嘉永三年戌の八月八日の夜江戸表  国々ともに雷のなることおひたたしく、いなひかり大地にも入べくかがやきわた り、げに出来秋のミ入よしとぞおもわれける。又雷ハよう気のはつくる所にして 陰気をはらひ邪気をさんするかゆえに田畑に生する五こくハさら也。もろもろの やさい物又ハなりくた物にいたるまてよく熟してミのるよしとかや、されハ天幸 ひを万民に下し玉ふ所なれハ幸ひの下りし場処を小細にしるす。    
  鳴神御下り場所
 一、日本はしくぎ店 一、もと大工丁 一、芝口三丁目 一、くた川長表通   一、つき地 一、神明丁海手 一、西くほ尻丁 一、西くほ木林本 一、あたこ した 一、青山寺山 一、本処かまや堀(此処ニてらい獣生取て今ニ有り)   一、芝松本丁 一、赤はね 一、七まかり 一、白かねこい丁 一、ふなほり  一、柴井丁海手 一、麻ふ広尾ニケ所 一、品川沖三ケ処 一、青山三ケ処   一、ゆしま 一、妻こひ坂上 一、本郷本丁 一、こちんか原ニケ処 一、番丁 九ケ処 一、小石川二ケ処 一、いいたまち 一、青山くほ町 一、本所竪川三 ケ処 一、植田はら 一、?かん橋茅場丁 一、ふか川小川丁 一、同六けん堀 柳川丁   惣〆五十四ケ処      
 右之通ニ候、人々ニけがなきハ全く神国の御いとく
、万々歳目出度可仰候

と、ありまして、要約しますと、雷は陽気のはじける所ですから、五穀、野菜、果物にいたるまでよく実る、今回の雷は人にも怪我なく大変御目出度い、となります。

嘉永三年八月八日、江戸に五十四ケ所も鳴神様の御下りがあり、「ありがたい」
実は、昨年私の家の近くの六畝と言うところに、鳴神様の御下りがあり、店の蛍光灯が一列破損いたしました。だめもとで、火災保険に出して見ましたら十五万円頂きました。直して見ますと、十三万円ですみ蛍光灯も新品になりました。
差額の弐万円「ありがたい」

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四大恐怖 地震、雷、火事、親爺

2009-06-04 19:10:38 | Weblog
 この度は、慶雲斎と銘のある日記を読んでいます。
慶雲斎は弘前藩の儒者ではないかと思われます。東條琴台や工藤他山など著名人との交流も書かれています。
手元の日記は、弘化から安政にかけての日記で、慶雲斎という人物は、さっぱりわかりません。どなたか分かる方がいればお教え下さい。
この日記によりますと、
   嘉永元年五月八日 夜七ツ時地震
         九日 天気俄然ト曇、雷鳴程なく晴、また夜に入り雷鳴大雨
         十日 涼、今昼過遠火
           三日変事珍しき事
                    とあります。
 頑固親爺はどこにでも居ますから、嘉永元年五月八日から十日にかけて、慶雲斎も珍しいことだと言ってますように、地震、雷、火事、親爺の四大恐怖が出揃ったのでした。
 他の日記によりますと、地震は九日の午前四時ころで、強い地震が関東一円で感じられました。九日は寒気の流入により全国的に天気が不安定で各地に雷が鳴ったようです。十日の火事がどこかは分かりませんでした。
 これを見ますと、慶雲斎氏は地震雷火事親爺と言うことばを意識していたようで、地震雷火事親爺と言う言葉は、江戸時代にはあったもののようです。

 
コメント (2)
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