幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

天保十一年十一月一日(西暦1840年11月24日)、江戸城黒書院の天気

2018-03-14 23:07:33 | Weblog
天保十一年十一月一日、酒井忠発が、江戸城黒書院で、三方領地替を言い渡されました。
忠発と庄内藩にとりましては、まさに「青天の霹靂」でありました。

ところで、当日の江戸の天気はどうだったでしょうか。
江戸九段下の【井関隆子日記】によりますと、「時雨の雲も昨日に尽ぬるにか、日影花やかに晴わたりぬ
となりまして、前日までのぐずついた天気がようやく晴渡ったようです。

全国の天気分布図を見ますと、



となっており、日本海側の一部を除き日本列島は概ね晴になっております。
忠発の言い渡された時間は正午前後と考えられますので、

午正晴、55度、29寸7分【霊憲候簿】 言い渡された時の江戸城黒書院での天気は晴、気温は摂氏12,8度前後で、
暮れも程近い、新暦11月24日としては穏やかな天気でしたが、天気とは裏腹に「神田大黒」の庄内藩江戸屋敷は
暗雲の中にあったと考えられます。

柴又の寅さんに言わせれば「空は晴れても、心は闇よ」と言ったところでしょうか。

冗談はさておき、暮れには早速国元に向けて、矢口弥兵衛が早駕篭で出立します
早駕篭出発の時は、気温は摂氏11.7度と高めでしたが、江戸も曇りとなりました。

秋田、山形では、一月前の十月一日に初雪が降っており、道中の雪も心配です。

興味は尽きませんが、夜も更けましたので、今日はこの辺で「おやすみなさい」

コメント (3)
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三方領地替

2018-03-08 18:35:55 | Weblog
天保十一年の三方領地替の時の天気状況を、リクエスト頂きました。

早速、藤沢周平のドキュメンタリ-ぽい小説「義民が駆ける」を読んでみました。

三方領地替えとは、三か所の大名が領地を替えることで、この時は、
川越の松平大和守→庄内の酒井左衛門尉→長岡の牧野備前守→川越の松平大和守
と国替えを行うと言う幕府の命令でした。

当然、損得があり、この領地替えでは、庄内の酒井左衛門尉が損をします。
そこで、移封反対運動をしたり、添地を願い出たり手を尽くしました。

結局、幕府は三方領地替を撤回しますが、決め手となったのは、百姓による移封反対運動でした。

民衆が台命を撤回させる事は驚くべきことであり、封建制度の終末を示唆する事件であったと思われます。

日付と事件を列記しますと、

天保十一年十一月一日、酒井忠発、江戸城黒書院で三方、三方領地替を言い渡される、矢口弥兵衛早駕篭で出立【義民が駆ける】
十一月七日、暮六つ、矢口弥兵衛早駕篭鶴ケ城着【義民が駆ける】
十一月二十三日、庄内藩西郷組十二人江戸出発【義民が駆ける】
十二月十二日、九ツ半頃、庄内藩西郷組十二人江戸着【義民が駆ける】
十二月十六日、五ツ半庄内藩西郷組十二人庄内藩邸に連行される【義民が駆ける】
天保十二年一月十五日、七ツ頃、庄内藩川北の百姓千住着、江戸着【義民が駆ける】
一月二十日、四ツ頃庄内藩川北百姓、幕府重役に駕篭訴え【義民が駆ける】
二月十日、酒田大浜百姓集会一万人を超える、大たき火【義民が駆ける】
二月十九日、領主発篭引留めのため、庄内百姓大集会、四ツ過六所明神大寄【義民が駆ける】
七月十二日四ツ時、府、三方領地替を撤回【義民が駆ける】

となります。

日時は、藤沢周平の小説からの受け売りで如何なものかとも思いましたが、正しそうですし、史料を集める気力がありませんので、あってはならない手抜きをしてしまいました。


この中から面白そうな日の天気を調べて行きたいと思います。

先ずは、天保十一年十一月一日の江戸城黒書院の場の天気ですが、パソコンが下手で、天気分布図

を書けないのが残念です。

 この頃は年度末で飲み会が多くなっており、桜祭りの準備もあり、

ゆっくりになると思います。
コメント (2)
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