幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

大暴風雨の越中島で、フェントン先生作曲元祖「君が代」 発表会 明治3年9月8日

2009-11-28 11:11:49 | Weblog
 酒を飲んでいて話題が切れると、「君が代」に2番はあるかと言う話しになることがあります。1881年(明治14年)11月24日小学唱歌集初編の「君が代」には立派に2番があります。曰く

二 きみがよは。千尋の底の。さゞれいしの。鵜のゐる磯と。あらはるゝ まで。  かぎりなき。みよの栄を。ほぎたてまつる。

この「君が代」は現在歌われている国歌より5、7、7長かったようです。これからは2番を歌おうなどと言っている不心得者もありますが、
あだしごとはさておき、

 フェントン先生作曲の元祖「君が代」は、明治3年9月8日(西暦1870年10月2日)越中島で発表されたことになっております。軍事大訓練において明治天皇の前で西謙蔵の指揮により薩摩藩軍楽隊による初演奏が行われたとのことです。
当日の様子を「大久保利通日記」と「嵯峨實愛日記」から追いかけてみます。
 前日の夜は頗る蒸暑
 明治天皇は、朝7時に江戸城を出発。
 午前9時頃越中島到着。
   10時頃より暴風雨が厳しくなり。
 午後1時頃暴風雨のため調練半ばにして還御。となります 状況を「嵯峨實愛日記」はこう記しています。
「行幸の処、ますます大雨、暴風、川水にわかに増し、潮もまた押し上る、、行幸の御仮屋が暴風で転倒して、清閑寺正三位など負傷人が出ました。還御の途中、道筋の人家が転覆して、青木大典医はじめ随行の侍臣に多数の圧死人がでました。」
肝の太い大久保も
「烈風、迅雨、希代の天変、水溢れ、家倒れ、御通行筋難渋、心配言語を絶す」
とあります。現在で言えば、大雨、洪水、強風、高潮警報のなかで、「君が代」は演奏されたのではないかと思います。
ただ、本当に演奏されたかどうか、手元の資料では確認出来ませんでした。確認できる資料があればお教え下さい。
 9月8日以降の北海道、東北地方にに暴風や大雨の記録がありませんから、この台風は東海から東京に大きな被害を与えたあと、進路を東よりに取り太平洋に抜けて行ったと考えられます。
何れにしましても、この台風は、フェントン先生作曲元祖「君が代」に致命的なアヤをつけて去りました。
もし台風が来なかったら、私たちは元祖「君が代」を歌っていたかもしれません。






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小津清左衛門 江戸大橋店の年功序列

2009-11-17 11:55:55 | Weblog
 前回に続きまして、小津清左衛門 江戸大橋店の理兵衛氏の「大宝得」「日加栄」から拾って参ります。
昨今のサラリーマンは気楽な稼業でもなくなって参りました。
では、江戸時代はどうだったのでしょうか。
慶応三年の備忘帳に、大橋店の従業員番付が書かれています。また明治二年の備忘にも書かれています。この間2年ですが、江戸時代は本当に年功序列の世界だったのかどうか対比させて見ようと思います。
慶応三年の番付は
 ①庄右衛門、②理兵衛、③和七、④和助、⑤友七、⑥文兵衛、⑦卯兵衛、
明治二年の番付では、
              ①和七、②和助、③友七、④文兵衛、⑤卯兵衛

同様に上に慶応三年、下に明治二年の番付を上げて行きます。

 ⑧吉兵衛、⑨万七、⑩米七、⑪儀兵衛、⑫善七、⑬伊兵衛、⑭吟七、⑮孝助
 ⑥吉兵衛、⑦万七、⑧米七、⑨儀兵衛、⑩善七、⑪徳助 ⑫伊兵衛、⑬吟七

 ⑯徳助、⑰勇蔵、⑱定助、⑲庄兵衛、⑳平蔵、21七兵衛、22安吉、23伴二郎
 ⑭孝助、⑮定助、⑯庄兵衛、⑰平蔵、⑱七兵衛、⑲芦介、⑳原七、21又七、

 24茂吉、25惣二郎、26由松、27要二郎、28尽吉、29専吉、30乙二郎、31常二郎
 22要助、23嘉介、24吉蔵、25宜兵衛、26常二郎、27秀二郎、28勝蔵、29卯吉

 32藤松、33秀吉、34橋蔵、35卯吉、36儀兵衛、37米吉、38文二郎、39政二郎
 30儀蔵、31米吉、32文二郎、33政二郎、34卯三郎、35重蔵、36常蔵、37米吉

 40久米吉、41卯三郎、42重蔵、43子之助、44常蔵、45末吉、46弁吉 〆46人
 38弁吉、39伊三郎、40捨松、41市松、42民二郎、43喜代治 〆43人

先ず、慶応三年に載っている、庄右衛門と筆者の理兵衛は隠居でもしたのでしょうか、番外となっています。その他は、慶応三年16番だった徳助が11番に上がっている位で、序列は20番くらいまで、殆ど変わっていません。ただその下になって来ると、入れ替わりや序列の変動が大きく不安定な動きとなって来ています。(改名や転勤などもあるかも知れません)
従いまして、当時の小津清左衛門の大橋店では、若いうちは競争が激しく、出入りも相当あるようですが、一定の年まで勤め上げると後は年功序列で上って行くと言う勤務体制だったようです。

入社当時は現代よりも競争が厳しく、競争に勝ち残れば、平穏な年功序列の世界に入ると言うのが、小津大橋店の人事だったようです。
歳を取ってから、努力しだいで安定出来るシステムは、歳を取ってからリストラされる今の人事より頑張り甲斐があったかもしれません。






            
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大店の鍵はどこに隠した 小津清左衛門 江戸大橋店支配人理兵衛の場合

2009-11-14 18:42:34 | Weblog
 伊勢松坂の商人、小津清左衛門の江戸大橋棚の支配人理兵衛の「大寶得」と「日嘉得」が七冊ほど手元にあります。残念ながら、天気は十日分ほどしか書いていませんでした。
難読なので、そのままにしていたのですが、小津本家の「小津清左衛門長柱日記」を読み、それでは番頭さんの手記もと思い読み始めました。

はじめに処世訓のようなものがありましたので写します。

  父母に孝行に、法度を守り、謙(へりくたり)り、奢らずして家職を勤
  正直を面々の本とする事
  誰も存じたる事なれとも、いよいよ能あい心得候様下々へ教申し聞ものなり。

とあります。今も昔も言うは易く行うは難し、と言ったところでしょうか。

ところで、慶応三年の控に「店へ置候覚」があり、中に鍵と印形の置き場所があります。
何となく興味がありますので紹介します。

  鍵(どこの鍵かは不明)はタンスの下の引出しの風呂敷包みの中へ袋に入れて  置いています。
  印形は、帳場の硯箱の引き出しの中にあります。
  また、二丁目、花たんすのかぎは、伊勢半へ預けています。

 鍵が店内になければ、内部の不正は無く、花たんすが、壊さない限りは盗まれないので、なるほどと思いました。
タイムマシンが出来ましても、皆様には「法度を守り」くれぐれも盗みに入らない様お願いします。
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