幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

安政二年地震後、困った死人の置き場

2015-10-23 22:11:52 | Weblog
安政二年地震後、四日から六日後の天気は概ね下の図のようになります。


安政二年十月六日正午頃の天気図



安政二年十月七日正午頃の天気図



安政二年十月八日正午頃の天気図



六日、七日は北日本に寒気が残り、北寄りの風で北日本の日本海側で天気が崩れていますが、
八日は西から雨の地域が拡がってきました。江戸では南風が吹きました。
低圧の通過による悪天を感じさせます。江戸では夜に小雨となりました。

余震は相変わらずで、いつも微動している感じで、時々強い余震がありました。

能楽師、梅若実は七日「今夜ハ様子悪敷き故門外ニ寝ル」
また、八日も「今夜も野陣にて外へ寝ル」と二日間門外に避難していた様です。

【藤沢山日鑑】には、困った事が書かれています。

「六日迄火不納所々端々焼候様子、処々寺々死人為山、千住、小塚原、袖ケ浦同断死人山之ことく、大八車ニ而曳出し候との事、寺々へ無沙汰ニ死人等荷ひ込或は捨置候、依之寺々番人付置候との事右数万之死人ニ準し怪我人不識其数、誠ニ、、」

訳しますと、六日までところどころの火事が治まらず、寺々は死人が山となった。千住、小塚原、袖ケ浦も同じく死人が山のようになった。 大八車に死人を乗せて寺に断りもなく死人を遺棄して行く。寺々も番人を雇って、、


いやはや凄まじき様子です。

【藤沢山日鑑】は藤沢にある、藤沢山遊行寺の日記です。遊行寺の僧侶も死体遺棄の危機を感じたのでしょうか。
地震と言う事象は一つですが、人は立場立場で感じ方が違うものでありんす。
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安政二年十月五日(1855年11月14日)、甘露ふる

2015-10-22 21:38:02 | Weblog
大地震の翌々日、安政二年十月四日(1855年11月13日)の正午ごろの天気図は



となります。

 日本海側の弘前、田代、院内で雪、鳥取で雨となって居ます。

銚子と新島では西の風、群馬県中之条と玉村では北風、池田市では昼後北西の風となっていて

北日本を中心に寒気が入ったようです。

被災した関東南岸では如何だったのでしょうか。

関東での寒さの記述は、中之条で「晴、北風甚寒し」

水戸で、「大霜、快晴、寒気なり」とあります。

江戸では、「天気よし、少し風、、夜曇、風」とありますが寒さの記録は見えません。

北に高気圧が寄ったため、東北や北関東の気温傾度が高く江戸は寒気の影響が少なかったのかも知れません。

茅ヶ崎にいる、放浪の棋士、和田篤太郎はこの日の記事に

「近辺村ニ女中奉公出候者数多火死いたし候由」とあります。

田舎から江戸に働きに出て焼死、不運とも気の毒とも何とも 云いようがありません。



安政二年十月五日(1855年11月14日)の正午ごろの天気図は





となっていて日本海側に曇りや雪のところがあり、寒気の影響があったようですが、

日本列島は概ね晴れとなったようです。

しかし、余震は江戸付近では頻繁だったようです。

この日、京都で甘露が降りました。

高木在中日記によりますと

「庭前ニ三尺四方程、甘露降、其粧を見るニ飴を流が如く、口中ニ入は砂糖水のごとく、甚めずらしき事なり」

甘露、甘露 

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