幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

流浪の古文書 道中大寶恵

2010-02-28 14:51:37 | Weblog
 盆栽の桜が満開になりました。

先日、知人が入手した「道中大寶恵」を読んでくれと依頼されました。
いつ、どこで、誰が書いたものか全く分からないと言うことでした。
このままでは、せっかくの古文書も利用できそうにありません。
また、手にとって色々推理するのは、結構面白そうです。

まず表紙には、「道中大寶恵」(どうちゅうおぼえ)とかいてあります。
裏表紙には「弓矢法印」とあります。「弓矢法印」とはペンネームでしょうか。
年代や書いた人の名前など全く分かりません。

一枚目をめくりますと、冒頭に「閏三月六日出立」とあります。
閏月があるのは、旧暦ですから明治五年より古い日記である事がわかります。

内務省地理局編纂の「三正綜覧」によりますと、
閏三月がありますのは、万延元年、天保元年、安永二年などです。
古文書の量も、道中記も幕末に近づくにつれて多くなって来ますので万延元年が最有力です。

日記には天気の記述がありましたので、書き抜いてみます。
また道中覚の右側に、他の日記から、万延元年の近くの天気を書き出してみますと、

十日 八ツより雨 (京都知恩院)      昼後雨【小森氏日記】【京都】
十一日    雨 (京都知恩院)      雨【小森氏日記】
十二日    雨 (祇園、東本願寺)    雨後止【小森氏日記】

廿九日   大雨 (高砂)          雨降、、大雨【高関堂日記】【揖保川】
四月朔日  天気 (兵庫八幡)      小雨降、曇夕方晴【高関堂日記】【揖保川】

七日     雨 (大阪)          天、、後雨【小森氏日記】【京都】
八日     雨 (大阪)          雨【小森氏日記】
九日 雨、折節川水多し(大阪)      雨【小森氏日記】
十日   天気成 (大阪)         天【小森氏日記】

ほとんど同じ天気記事であることが分かります。
としますと、この「道中大寶恵」は、万延元年の桜田門外の変の翌月の閏三月から書かれたものであることが分かりました。
また筆者はよく駕籠に乗っており、この記事から

 久米、亀屋―久保田―関―坂下―土山―、、、京都、、―久米、亀屋  となっていますので、

おそらく、弓矢法印は桑名市久米から四日市久保田、と通って行った様子なので、(土地勘がないため自信はありません)桑名市付近の人だとおもわれます。

従いまして「道中大寶恵」は、万延元年に桑名の人 弓矢法印によって書かれた道中記であったろうと思われます。
  
裏表紙を閉じて、このような流浪の古文書が多いことに思いを馳せました。

この道中記も流浪を終えて桑名市博物館にでも入れば、もっと輝いてくるのかも知れません。









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安政六年 九月二十日(西暦1859年10月15日)坂本竜馬、土佐藩砲術家

2010-02-14 18:32:40 | Weblog
 明治維新の前後に活躍した人たちは沢山いますが、天保年間生まれで、安政年間に修行、文久から慶応、明治に活躍すると言うのが一つのパターンのように思われす。
 竜馬が、土佐藩砲術家徳弘孝蔵に弟子入り したのが、安政六年九月二十日と講談社の「再現日本史」にありましたが、この日長岡藩の河井継之助は全国遊学中ですし、同じ年の三月九日に土方歳三は天然理心流に入門しています。皆それぞれに研鑽に励んでおります。
 それでは、安政六年 九月二十日(西暦1859年10月15日)の天気を見て参りましょう。

晴【青森県八戸市】
朝より晴【福島県相馬】
曇、夕晴【江戸】
晴【甲府市】
晴【福井県鯖江市】
晴【愛知県岡崎市】
晴【京都】
晴【山口県萩市】
晴【小倉市】
晴、曇天【鹿児島県肝属町】
となっていて、全国的に晴れ模様だった事が分かります。
風はと言いますと、

東北風【千葉県銚子市】
北風【東京都新島】
また、香川県の金比羅様をお参りして船で東を目指している河合継之助さんのレポートによりますと「向かい風」とありますので、瀬戸内海でも北東方向の風が吹いていたようです。

肝心の高知県の天気を【真覚寺日記】で見ますと
晴【高知県高知市】となっております。

 従いまして、竜馬は晴れた北東風の日に徳弘孝蔵に弟子入りしたことになります。

また、【真覚寺日記】には、こうもあります。

「悪疾流行、、城下市中往来ニ線香ニ火を付持もの多し 」
この頃はマスクをする人も少なくなってきましたが、安政六年九月二十日の高知では疫病除けのため線香を持って歩いていた人が多かったようです。

ひょっとして、竜馬も線香を持たせられて、徳弘孝蔵の門を叩いたのかもしれません。
往来では、北東の風に載って線香の煙が南西方向に流れていたでしょう。




写真は、三重県四日市市の三好堂春吉の絵日記から、こうもあろうかと言う挿絵を載せてみました。


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吉田松陰密航未遂、寒冷渦による雷の時 嘉永七年三月二十七日夜(西暦1854年4月24日)

2010-02-06 17:53:25 | Weblog
 今日は、私の住んでいる宮城県栗原市若柳でも吹雪いています。珍しい寒波で、すっかり雪国に様変わりいたしました。

すこし明るさが出て来ましたので、改装中のくりでん若柳駅を撮ってみました。
其のうち鉄道公園になるとのことで、日々変わってゆく様子を楽しんでおります。

寒冷渦と言われる、強い寒気が上空に来ると、冬では、大荒れとともに冷蔵庫に入ったような寒さがやって来ます。夏には、雷や大雨などのあとに寒気がやって来ます。
「八十八夜の別れ霜」なども寒冷渦の中で起きることが多いようです。

ともあれ、ペリーが二度目に来日したのが嘉永七年の一月十六日(西暦1854年2月13日)です。
その70日後、吉田松陰は密航計画を実行に移します。何時から機会を窺っていたのかは分かりませんが、幕府や諸藩の警備の網を潜って、アメリカ船までたどり着くのは大変なことだったろうと思います。
もちろん気象条件も十分に考えていたに違いありません。

それでは、松陰がアメリカ船に密航した嘉永七年三月二十七日(西暦1854年4月24日)夜の天気を見てみましょう。

青森県三戸町の日記によりますと「今日、雪降積もること、弐尺程、松杉沢山雪折有之」とあります。5月近くにもなって60cmもの雪が降ったことが書かれています。


静岡県沼津市の日記にも「朝より快晴無風、昼頃より追々黒雲出、、八ツ時分大雷大雨ヒヨ交リニて降リ、愛鷹山上えは、余程之積雪白ク相見江大に寒、七ツ頃より雷鳴相やみ、追々晴来、、夜快晴無風」とあり、山には雪が降ったことがわかります。

外に下田近くの天気を見てみますと。 

曇、午時大雨霰雷夏冬一時至【江戸】
               
朝雨南ノ方雷八ツ時止【栃木県佐野市】

今暁雷雨、六時過より晴、昼頃又雷雨、八時頃より晴【埼玉県、越谷市】

西風天気【東京都、新島】

朝雨降、五ツ前より晴、四ツ比小雨昼頃雨氷降、五ツ前より晴、八ツ比より晴【千葉県、流山市】

天気北風午時後雷鳴雨雹交り暫時晴【千葉県、銚子市】

微晴、午後雷鳴雨降暫時止陰リ【横浜市、生麦】

雨天【神奈川県、藤沢市】

とあります。四国の丸亀市でも大霰、新潟県巻町でも大雨など、この日は全国的に、「夏冬、一時にに至る」寒冷渦にともなったシビアウェザーとなった模様です。
関東では昼後、雷が激しかった様子ですが午後2時頃には上がり、晴れてきたところが多かったようです。
ペリー来航記によりますと、松陰たちの小船が寄ってきたときには、うねりが高かったとありますが、北西方向の風が吹いていたことと思われます。
何れ、寒さと風とうねりで、異国船に近づくのは大変だったでしょう。

松陰たちは、日中の激しい雷や雨、雹などで夜も油断していた、番兵の虚を衝いて、小船を漕ぎ出したものと思われます。

書き込んでいて、思い出したのですが、松陰が異国船に近づいた時は雷が鳴っていたと書いていた調書があったように記憶しています。
とすれば、下田辺に雷があったのでしょうか、ただ関東では夜の雷は記録されていません。
もしかすると、雷がおきた方が都合の良い人がいたのでしょうか。
雷が鳴っていなかったとすると、英雄ぶるため松陰が嘘をついたのか、それとも幕吏が松陰たちを阻止できなかった理由にしたのか、どちらかでしょう。

嘘を最もつかなさそうな松陰、保身のために狡猾な幕吏、まばらな天気資料。
そのうちに、真実を掴み御披露したいと思います。




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