幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

不埒な異国人 犬の名は”ダボウ”、飼い主は 大坂梅本町木地屋元治郎借家 英国人フルユス ゴシメン

2011-01-23 16:02:33 | Weblog


幕末、明治初期に日本を訪れた外国人にも色々いて、
日記に悪口を書かれている人も多いようです。

文化や習慣の違いもあるとは思うのですが、やっぱり変だな
と思う方が多い私です。

大坂梅本町木地屋元治郎借家 英国人フルユス ゴシメンは ダボウと言う犬
を飼ってまして、

見世物小屋を外から覗いている人や散歩している人に飼い犬ダボウをけしかけ

「右犬、喰付諸人難渋の趣」

となります。

飼い犬は主人に似ると申しますので、やはりゴシメンは凶暴な人柄だったのでしょう。

また、同じ「慶応四年日録」に

「当六月六日、八日頃、角芝居え異人罷越代料不払由」とあったり

茶店で支払いをしなかったり、金銭のトラブルも随分あった様子です。

「旅の恥はかき捨て」

なんとなく思い出される一言です。


ところで、日本の庶民は犬をどのように飼っていたのでしょうか。

文献はほとんどないですが、戊辰戦争時の福島県の文書に

土佐藩兵が来ると犬がいなくなって困るとあります。

犬はやはり飼育されれていたようです。

ただ、管見で江戸時代の犬小屋は見たことがないので、

庶民は犬を屋外で放し飼いにしていたのではないかと考えています。

そのうち史料があれば御紹介したいと思います。
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万延元年三月三日(西暦1860年3月24日) 桜田門外にふる雪の性質

2011-01-12 16:47:59 | Weblog


リクエストありがとうございます。
桜田門外の変の起きた時の天気をご紹介いたします。
当日は、雪が降っていたことは、あまりにも有名です。

さしあたり、万延元年の春の天気の特徴を申し上げますと、
丸亀に配流中の鳥居甲斐守様が日記に「二月来多雨」と書いていますように
寒気が強く不順な気候でした。
ちなみに、世田谷では二月一日から三月三日の33日のうち、降水のあった日は
17日でした。(53パーセントの降水確率です。)
人馬氷の上往来、、珍敷事ニ候、、当年ハ近年無覚大雪ニ候【永宝日記】【鯵ヶ沢】
天気陰暗、霾曀不開、寒気特重【曽国藩日記】【武昌】
などとありますように、寒気の残った陰鬱な日が日本列島でも大陸でも続いて
いた様子です。
その原因は、優勢なオホーツク高気圧から吹出す、寒冷な北東気流にあったように思われます。
銚子の玄蕃日記によりますと、上記の33日のうち
  東北、又は北東風の日が23日
  東南の風の日が5日
  西南の風の日が2日
  西北の風の日が1日
  東風の日が1日
  北風の日が1日
となっています。

北東気流に支配された、陰鬱な春に、桜田門外の変は起ったと言えましょう。

それでは、事件当日の天気を見て参りましょう。
当日の風は、小倉で東風、銚子で北東風、東京都の新島で北風となっています。
また、雨と雪の分布が微妙です。
   江戸、甲府、日光、宮城県松島、青森県鯵ヶ沢で雪、
    新潟県巻町、秋田県の院内銀山で、みぞれ(水雪、糠雪)
山形県尾花沢市、新潟県三条市、駒ケ根市、銚子、生麦、藤沢、などで雨となっています。
一般に、日本の降水は氷晶が下降してきて、下層で解ければ雨、解けなければ雪となると申します。
蓋し、北東気流により下層の温度が低いところが雪になったとおもわれます。

当日の江戸は、雪か雨か微妙なところで雪となりました。
大胆な推測をすれば、当日の桜田門外の気温は降水が雪になる目安の摂氏3度前後だったのではなかろうかと思われます。

井伊大老は、三日朝五ツ半時井伊候登城之処、とありますように朝9時ころ襲撃されたと考えられます。
その時江戸ではどのような雪が降っていたのでしょうか。

夜中ヨリ雪ふる綿帽子大つぶ也、、昼時過雪止む【月岑日記】【江戸】
朝より雪五ツ半時頃さかりにふる、庭の一間先の木か見わかぬ位ひなりき、九ツ過頃ハやミたり【西升子日記】【江戸】

とありますように、水戸浪士が井伊直弼を襲撃した午前九時ころは、大粒の綿雪が激しく降っていて、一間先の木も分らぬくらいだったとあります。


雪の白いカーテンから躍り出て来る刺客たち、

天は井伊大老暗殺に一枚加わったようです。








この葉書は「桜田門外の変」の吉村昭さんから、【西升子日記】を御紹介頂いたときの葉書です。
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自分中心主義の年賀状 (安政六年六月九日 年始状届く)

2011-01-08 13:53:51 | Weblog


前回、紹介致しました、「村井直壽」の日記を読み進んでおりましたら、

安政六年六月九日に「大坂 伊丹屋四郎兵衛より年始状来る」

とありました。

やっぱり、大坂から舟で江戸に下り、江戸から石巻を経由して盛岡に届いたのだと

思います。

なんと遅いことでしょう。

「書中見舞いが戻ってきたのは秋だった」

と歌の文句にありましたが、

安政六年の六月九日は、西暦では1859年の7月8日です

歌の文句にいたしますと、

「年賀状が戻ってきたのは夏だった」

となるようです。

現在は相手に御正月に届くように、年賀状を出しますが、

江戸時代は、相手が何時読もうが頓着しなかったようです。

幕末の人々は以外に自己中心主義者が多いようです。

きまりに捕らわれた現代人より、人間として奔放だったのでしょう。

もっと遅く届いた年賀状の記録がありましたらお教え下さい。

遅い年賀状較べをいたしましょう。

謹賀新年
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ゆらゆら届く 安政六年の年始状

2011-01-03 18:29:45 | Weblog


年末年始は小商人にとって、大変な時期です。

忘年会、お歳暮、集金、初売り、新年会

それに年賀状と来ます

苦し紛れに年賀状は旧暦で出したりしましたが、

お客様にはそうも行かず。四苦八苦です。

年賀状は本来は新年に書くべきだとおもうのですが、、


ところで、手元に盛岡の人、村井直壽がかいた「年中雑書」

と言う日記があります。

これに年始状の記事がありました。

「三月廿日 曇、昼頃より天気ニ相成  江戸 湯浅屋与右衛門より
 参り候、年始状(赤海屋百之助行カ)相届け申候」

とあります。

年賀状が3月20日に届いたら、現代人は違和感を持つに違いありません。

でも、事実です。

湯浅屋与右衛門は、石巻の千石船持ちの武山家とも関係があります。

(ミツカン酢、舟運気分)www.mizu.gr.jp/kikanshi/mizu_25/no25_c02.html

おそらく、年始状は、江戸から物資と一緒に千石船で石巻に着き、ヒラタ舟

に乗り換えて盛岡に着いたのでしょう。

ああ、江戸時代だったら、せかせか年賀状を書くこともなかろうに。







 
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