高杉晋作の日記「試撃行」 によりますと、晋作が修行の旅で、茨木県の牛久駅の宿に泊ったのは、万延元年八月二十九日、西暦では1860年10月13日のことであります。
試撃行にその夜の事が書かれています。
此夜雨頻降、同宿旅人皆狼狽認雨具
家奴云 秋時雨至夜 必催明朝放晴
九月朔日、果如家奴言 天晴日出
同宿旅人驚訴喜 予亦応其喜
訳してみますと、
二十九日の夜、雨が頻りに降ったので、同宿の旅人たちは、あわてて雨具を用意した、
その時宿屋の番頭が、秋の夜に時雨が降れば、明日の朝は必ず晴れ渡ると言った。
果たして翌九月一日の朝は番頭の言うように空は晴れ日が出た。
同宿の旅人は番頭さんの言った通りになったので、驚いて言った。
番頭さんの言う通りに晴れた、良かった、良かった
私もまた、良かった良かったと言いました。
と言う感じでしょうか。さて、家奴の 秋時雨至夜 必催明朝放晴 と言うところですが、
この日の雨は、雨頻りに至る、時雨と言う記録から積乱雲による強い雨考えられます。
また夜は日射がありませんから、積乱雲が発達するのは上空に強い寒気が入ってきたと考えられます。
この時雨は、天気図から見ますと、前線の雨の後に、寒気の核が通過する時に降った時雨と思われます。
寒気が過ぎると、移動性高気圧が張り出してきますから、晴天になる確率は高く家奴の言葉は現在でも通用しそうです。
実際に天気分布図をみてみなすと、
(うまく分布図が出来ません、後日UPいたします。)
とあって前の推定は正しそうです。
さぞや宿屋の番頭は得意顔であったでしょうが、良かった良かったと言ったのが誰あろう泣く子もだまる、奇兵隊の総帥 高杉晋作とは知るよしもなかったでありましょう。