幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

リクエストに答えて天保七年七月十八日の天気

2009-05-24 17:30:54 | Weblog
小天気様、 リクエストありがとうございます。
天保七年七月十八日(西暦1836年8月29日)の天気をお知らせいたします。
季節と言い天気といい、当日は台風が東日本を襲っていたことに間違いありません。
台風は中心に近い程、風は強いと申します。そこで、強風による記事を前後5日の間に上げてみますと、
七月十五日、鹿児島県、鹿児島市で終日風雨、風雨強く傘など差せるような天気ではない。同じく鹿児島県肝属町で大風。
七月十六日鹿児島市で、終日風雨。佐賀県多久市で夜来風烈。福岡県小倉市で曇、風烈
七月十七日、大阪では、東風吹少ハ稲へ障るべし。江戸では、東風頗る大なり。終夜風雨、風波中に臥すがごとし。
七月十八日は、北海道の厚岸では、夜ニ入る存外之風雨、宮城県涌谷では、朝くもり、、八ッ頃より大雨辰巳大風にて大嵐相成候晩方は弥々大嵐にて近年覚無之惣草木ねかり風折れ多く有之候夜中四ッ時より大風やみ。江戸では、早起きすれば、風はますます甚だしく、東北よりし,或は東南、或は正東よりす。山谷はほうこうし,,木は折れ且つ抜く。巳午の間に最も猛。哺はじめて止む、、、哺後、西南風なお披払す、、、戸塚以西もまた風なし。また江戸の他の日記によると、朝より大風雨、雉子町火の見吹き落す。今日大風雨、所々家を倒し怪我人等有之由。朝寄とう南之風吹雨降止事無し、前堀並川筋不残重満いたし往還江押出し。
などとなっています。
これらの日記を総合して見ますと七月十五、十六日は九州地方で台風の影響はあったものの、それ程の被害は無かった様子で、おそらく台風はその後進路を大きく東に変え(別な台風の可能性もある)、十七日の夜、伊豆の新島付近を通過、次第に速度を上げて、東京都の西より上陸し、家屋や樹木、稲などに被害をあたえながら、東北地方をやや太平洋によりながら縦断し、太平洋に抜けていったと考えられます。(各地の風の向きや被害から推定)

台風の姿を現代風に想像してみますと、
おおまかに推測して、台風の中心が江戸付近を通過したのが、午前十一時頃、宮城県涌谷付近を通過したのが、午後六時頃としますと、両地点の距離約350キロメートルを約7時間かけて通過したとしますと、台風は約50キロメートル毎時のスピードで北北東に進んだと考えられます。
台風の強さは、木を引き抜き、家々を倒しと言う記述から、現在の風力10(全強風)程度で台風の大きさは、涌谷町の史料によりますと、強風が午後二時頃から翌日の午前二時頃まで続いた様子ですので、50キロ×12時間となりで600キロ、涌谷通過時には半径300キロ以上になります。

当日の全国の天気は、鹿児島で晴、小倉で曇、鳥取で晴、宮津は晴、大阪で晴、曇り、村雨、金沢で雨天、氷見で曇りのち雨午後四時頃風つよし、甲府は晴、関東、東北、北海道は太平洋側を中心に台風のため大荒れとなっております。
想像ですが、天保7年は4年と並ぶ冷害の年で、太平洋高気圧の張り出しが弱く通常の年より台風が東側を通過したのかも知れません。
簡単ですみませんが、これが私の予想した天保七年七月十八日の天気概況です。
お気付きの点が有りましたら御指摘頂ければ幸甚です。

コメント (2)
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幕末の天気 リクエストにあわせてお知らせいたします。

2009-05-18 18:34:14 | Weblog
ブログの書き込みが、天気から離れておりましたので、この度は読者の皆様のリクエストにお答えいたします。
先着3名様、お一人一回に限ります。コメントに天気が知りたい年月日と時間、場所を書き込んで下さい。
日本で、天保2年から明治5年までの間でリクエスト下さい。
時間はかかるかも知れませんがお答えします。(北海道、沖縄等は出来ない場合があります)
奮って応募ください。

と言っても、多分リクエストは来ないのではないかと
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薩摩藩集中砲火でイギリス軍艦を破船 弘化四年二月十一日 

2009-05-02 19:43:39 | Weblog
前回ご紹介しました、田中政之助日記の読み下しです。まだ一部読めないところがあります。長々となってしまいましたが、要約しますと弘化4年2月11日紅白十字の旗(赤十字旗?)を建てて近づいてきたイギリス軍艦を集中砲火したところ黒煙が立ち続け日輪が朧月のようであった。翌12日軍艦の中を調査したところ船底には牛や豚が死んでおり、生き残っていた五人ばかりを生け捕って来たという話しです。
俄かには信じがたいことです。真実としますと、戦意のないイギリス軍艦を一方的に破船したことになり、生麦事件の比でない大事件です。
恐らくデマでしょう、このようなデマが全国的に流行した裏に、当時の日本人民の心持が見える気がします。

 
 弘化四年丁未二月九日辰之刻凡六拾里斗り沖手え異国船六艘相見候処、早速夫々海岸之番所え向厳重ニ備立申付候処、翌十日三十里斗り沖手え近寄候処五艘之船は不相見、且壱艘有之、毎年渡来致し商船ニも無之様子、?年以来琉球国佛朗西国軍船度々参り交易之筋願出す事在、海岸は不申及番所向え大筒小筒石火矢数多備立家来之面々陣所為詰置候処、此間異国船は拾五里斗り近寄碇をおろし此地之様子見合居候処、一時ニ打払候半哉と用意致し候処、走り来り、翌十一日異国船は碇を上ケ紅白之横竪十文字之旗印を建白帆三段十分ニ失し如く走り来り、追々近寄候ニ付兼而(特段?)(?海?)用意はゴンベンモイル(此ハケ奥ニ記ス)石火矢数百挺弾丸大薬を込メ待居候処、凡弐拾町斗り近寄候ニ付能々見定メ候処帆巻碇をおろし候間、尚能み候えは軍船ニ而石火矢数十挺三段ニ構、船之尾之方ニは四段ニ備附異国人之船之櫓へ登り拾人斗リチ(ヲ)クタント云、遠眼鏡ニ而地方測量之様子ニ相見申候旗印ニ而察候得は?天??国ニ相考、直様軍船を目掛ケ大筒小筒石火矢一時ニ数百挺放し候処、忽三本之帆柱打折候所え船中えゴンベン数拾挺を打込候得は更ニ破船之様子ニも無之唯黒煙り立斗り異国船よりハ始メ之程?正字不分明、少シ間弐三拾九段?打放候得は此方ニは格別之炮痛も無之拾四五人頭胸板等打抜レ即死候。異国人ハ陣所より壱弐丁先キ海中えゴンベン打込海水沸揚恰も雷如く、異国船之人は如何致し候哉夫より一放しも無之故、若又船底ニ隠レ居候哉とゴンベン石火矢ニ而、破船させんと船を目当ニ打放し候得共少しも替る気色無之、表面ニ相見申候船具段々焼失候様子ニ有之、乍去容易ニ近附へくニもあらす、申刻頃より評議致し候内、白昼晴天之所?海上黒煙り相立日輪朧月之如く、何分異国船之動静不相分、其夜も諸士之面々陣所々々え高張提灯、明松、篝火をたき只海中軍船を白眼居候て翌十二日朝大船破舟之様子ニ相見申候ニ付与力指連レ様子為見候処、人きも無之乗移らんと為候得共高サ八九間も有之中々乗事不相叶、早速はしご釣縄相持参勇士三十人乗移り船中相改メ候処船之長サ凡四拾五間、船巾拾間、船凡七百人乗之よし、コンベンニ而死候もの六百七拾壱人、炮痛ニ而未生命有之もの拾七人内五人は助り候様子、腰釼取上ケ生捕罷帰候?月指?候而事之よしを為尋候処エゲンス軍船六艘者共、コントン之都出航日本迄参り交易を相願御免無之節は接戦之治定ニ而一艘使節ニ参り交易願候存念ニ而渡来仕候、類船五艘は琉球国え参り交易之否哉相知れ候迄滞船罷有候様次第調儀仕候趣ニ而相別レ我々御番所え参り交易之願書指上度存念候処、不図接戦ニ相成用意大筒コンベン間ニ合不申残念至極と申出候、其船上より船底まて五階ニ相成居、牛、ふた、鶏、鴨之類数多死居申候、船破所より海水入、下え這入事出来不申候由、死体船共其所え置、番船数百艘付置堅固取締申付置候、今般異国船を如此打払候儀は意味を考不申候ニ而は不仁不儀之戦之様ニも相聞候得共、決而左ニあらす近来よふ易ならさる御時節ニ付、此段も家来之面々心得罷在候、昨年もテネマカ船参り交易相願候得共、迚も御取揚ニ不相成罷帰候段エゲンスモ心得有ながら軍を以強願可致とハ不届之至りニ付前役之始末ニおよひ候、猶一条家臣安間求之允追而指下し候間、御聞取可被下候、以上    三月十三日     松平大隈守  ○此ゴンベン言ハ石火矢躰二而敵地え参り忽タケ入コハレブンサンイタス【田中政之助日記】【太平町】

読みにくくてすみません。文中11日は白昼晴天とありますが、ほかの日記によりますと、鹿児島では晴れ、肝付町では晴れのち曇りで天気はほぼ合っています。
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黒船とジョーズ

2009-05-01 19:19:28 | Weblog
 黒船来航と言うとペリー提督の嘉永6年7年の来航が、あまりにも有名なため他の異国船来航は目だたないのですが、たしか「紀州田辺御用留」に書かれているように、日本を何百艘もの黒船がぐるぐると回っているイメージがぴったり合っているようにおもわれます。

 先日、歯医者に行ったら若い見習の先生が、「はい、麻酔を打ちますので痛みます。」と何回も言いました。不意打ちも困りますが、何回も言われますと恐怖が大きくなって来ました。
 同じことがジョーズにも言えると思います。画面の最初からジョーズが出てきたのでは、ビックリはしますが、恐怖は増幅されません。やはり「でるぞ、でるぞ」が続いている内に恐怖が強くなるのっだと思います。
 黒船もこれと同じで何回も何回も「来るぞ、来るぞ」が重なって日本国民の恐怖は次第に増幅して行ったのだと思います。
 前回、紹介いたしました田中政之助日記ほほとんど日常生活の記事で、派手な記録はあまりありませんが、異国船の記事は三箇所ほどあります。
年代順に上げますと、

 ①津軽藩の平館へ異国船の来航

 ②薩摩藩が赤十字旗をつけたイギリス軍艦を討ち取るはなし。

 ③ペリー浦賀来航

 です。
②の話しは、川路としあきらの日記にもでています。川路も本当だろうか?と疑っています。田中日記には大変詳しくこの事件に関する記録の写しが載っています。
内容は、赤十字の旗のような旗を付けたイギリス軍艦を大破させ、分捕ったと言う内容です。嘘だと思いますが、もし本当でしたら日本史上の一大事件です。史料は勿論隠滅されているかもしれません。
次はこの記事を載せたいと思いますので、御期待下さい。

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