幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

 古文書(日記)の史料価値を上げる 「長作のおおばかやろう」

2013-09-16 18:01:35 | Weblog
 ようやく、斎藤月岑日記から、天気データの取り込みがおわり、
今度は、手元にある原文書(日記)から、天気データを入力することにしました。



日記には、表紙がなく裏表紙にもなにも書いていません。
勿論、書いた人は自分が何処で書いたかは分かり切っているために、全く手掛かりが
ないことも間々あります。

ところで、この日記には、土浦、水海道など茨城県の地名が出てきます。
また、日川村、福岡村、田村などの村名が出てきます。これを検索しますと


となり、日記の書かれた場所は「つくばみらい市」となります。



また、筆者は誰かと言うと巻頭に7人が、年頭の賀詞を書いていますが、
その筆頭の「飯泉保太郎」という人が第一候補だと思います。
 曰く
  皇家貴主好神仙  別業初開雲漢辺
  山出尽如鳴鳳嶺  池成不譲欣龍川
  

とあります。上手いかどうかは分かりませんが、韻は踏んでおります。
日記を読み進めて参りますと、「保太郎より村方え年頭罷出る」とか、
「保太郎樋沢二十三夜様え参詣」などとあり、日記の筆者は、飯泉保太郎氏の違いありません。
保太郎氏は店も持っており、土浦藩の特権商人だったような感じです。

それでは、この日記は何時書かれたものでしょうか。
丑年に書かれたことは間違いありませんが、文化文政以降に町人日記は飛躍的に増えますので、

  慶応元年、嘉永六年、天保十二年あたりが、有力候補と言えるでしょう。

 続いて、日記記述の月の大小をみますと、

1月大、2月小、3月大、4月大、5月小、6月大、7月小、8月大、9月小、10月大、11月小、12月大

となっていまして、嘉永六年と一致しています。

ただ、気懸りなのは、嘉永六年の日記にも関わらずペリー来航の記事がひとつもなく、また、
二月二日の小田原地震の記述もないことです。

 一応念のために、日記からシビアウェザーを拾い出してみると、

  2月21日(西暦1853年3月30日) 雨天、夜大雨
  2月22日(西暦1853年3月31日) 朝より昼まで大雨  誠ニ大雨大水出 

とあり、珍しい春の大雨となった様子です。
他の史料と突き合わせてみますと、

  2月21日 38度、朝よりくもりさむし、八ツ時よりきり雨ふり夕方より雨つよし、夜中終夜ふる【大高氏記録】【水戸】

  2月22日 宵より雨ふり終日雨、七ツ半時より止、四ツ時より雨ふり【大高氏記録】【水戸】
       昨夜より大雨【二宮尊徳日記】【江戸麻布】

とあって、天気記事がぴったり合い、嘉永六年の日記に間違いありません。


そこで、この無名の日記に名前をつけましょう。

   「嘉永六年 丑 飯泉保太郎日記(つくばみらい市)」となります。

  史料価値がぐっと高まったような気がします。

最後に,この日記は格調高い賀詞で始まり「長作のおおばかやろう」で閉じています。



年酒で酔っぱらったのでしょうか。

人は立派なだけでは生きていけないものなのでしょう。

そうだ、俺も飲みに行こう。




コメント (4)
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世良修蔵の密書「奥州皆敵」は会津の偽書

2013-09-08 21:17:37 | Weblog


天気を調べていると、日記の色々な記事に会えて楽しい。

以前「長岡雲海公傳附録 巻一」を読んだことがあります。

長岡雲海公は、熊本藩主細川斉護の六男で、一時喜連川藩主の養子となり、明治政府の要職に就いた人物のようです。

この記事の中に


「長州参謀世良周蔵も、全く会の奸計にて殺害に会ひたるよし、其次第は偽書を作り、仙藩を激怒させたるよしなり」
とあります。

では、密書は現存するのでしょうか。

藤原相之助著の「奥州戊辰戦争と仙台藩」では、
世良の密書の原本と言われる書状は、あちこちにあり原本は特定できないが、仙台伊達家や白石片倉家にはなかった。
として、藤原相之助氏自身は密書の原本は存在していたと推定している。
しかし、「防長回天史」を編集した末松兼澄博士は、「世良が大山に密書を送ろうとしたことは、果して事実かどうかはなはだ疑わしい、少なくとも正しい史料として読むべきではない」としている。

結論から言えば、良く分からないということであろう。

奥羽越列藩同盟の起爆剤となった密書の存在も真偽も良く分からないが、世間では史実のように通っている。

謎、楽しいですね、これだから歴史はやめられませんね。


これからは、全く私の推測です。

①損得を考えますと、密書の露見で列藩同盟が成立し、一番得をしたのは、会津藩と庄内藩だと思います。
としますと、会津には偽書を造る十分な動機があったはずです。

②密書は、仙台と米沢を「弱国二藩は恐るるにたらず」とあきらかに挑発しています。

③密書によりますと、密書が書かれたのは、閏四月十九日の八つ半(現在の午後三時頃)でその夜に世良修蔵は襲撃されますが、翌朝6時頃には会津藩は白河城を急襲して落城させており、段取りが良すぎる感じがします。

などの三点を考えますと、世良の密書が、会津藩の偽書だった可能性は十分あるような気がします。 
ただ、会津藩だけで、密書でっち上げは出来ることではなく、仙台藩や列藩同盟の薩長嫌いが共謀して行ったのではないでしょうか。世良を殺した後に密書をばら撒く、そんなことがあるような気がします。

世良はどんな人柄だったのでしょうか、
明治九年に明治天皇の東北巡幸に随行した木戸孝允が、世良の墓に詣で、哀悼の歌を詠んだそうですが、
木戸孝允が確か日記に「新しい時代を創るためには、まだまだ戦が足りない」と書いていましたが、
世良はそれを忠実に守っていたのでしょう。
藤原相之助著の「奥州戊辰戦争と仙台藩」では、「世良の性格はどちらかといえば、感激し易い正直な純情家だったと見える」
また「世良は、根が人の好い男であったらしく、、彼が案外素直なところもあり、稚気もあることを知っている大越文五郎や坂元大炊らは、何も殺すまでのことはないと思っていたらしい」とあります。

テレビドラマとは大違いのようです。




と以前に書きましたが、世良修蔵の性格が出ている史料を見つけました。
【澤為量征討記録】の三月二十七日の記録です。
澤三位と世良修蔵は当日仙台にいました。当日の仙台は、「晴、、桜花沢山ニて此の節満開」でした。
そこで、「世良修三釈迦堂花見ニ参り今晩帰り申さず候事」となります。
確かに酒と女は好きだったのでしょうが、暗殺される50日前です。行く先も告げず、出歩き、翌日の帰参とは
あまりにも無防備です。
やはり藤原相之助著が指摘したように「世良は、根が人の好い男」だったのではないかと思います。
もしかしますと、一緒にはなを見たのは大越文五郎や坂元大炊あたりかも知れませんね。


コメント (7)
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